書籍・雑誌

2016年3月17日 (木)

自己愛以外の愛情を知っていますか?

応訴作業・応訴活動に余念のない日々が続いている。 

 

そんな明け暮れの中、私が繰り返し読んでいるのは

 

 

「良心をもたない人たち」という著書である。

 

 

商品の説明

 

内容(「BOOK」データベースより)

 

平然と嘘をつき、涙で同情を誘い、都合が悪くなると逆ギレをする―本来、人間に備わるはずの良心をもたないがゆえに、他者への思いやりが絶対的に欠落し、手段を選ばずに自分の欲望を満たそうとする人たちがいる。25人に1人いるとされる“良心をもたないサイコパス”の実態を心理セラピストが明かす。

 

彼らの被害者にならないための見分け方と対処法を教える一冊。 http://www.amazon.co.jp/%E8%89%AF%E5%BF%83%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-%E8%8D%89%E6%80%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B5-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%88/dp/4794219296

 

  

良心とは何か?

 

 

追いつめられたサイコパスが取る行動とは?

 

 


折に触れ、内容をご紹介していきたいと思う。

 

 

***

 

 

良心はおこなったり、考えたりするものではない。私たちが感じるものだ。

 

 

言葉を変えると、良心は行動でも認識でもない。良心は本来、〝情動〟すなわち一般に感情と呼ばれているものの中に、存在している。(41頁

 

 

心理学的に言うと、良心はべつの生き物(かならずしも人間とはかぎらない)ないし人間の集団、あるいは人類全体への感情的な愛着から生まれる義務感である。

 

 

良心はだれか(あるいはなにか)との感情的な愛着なしには存在しない。

 

 

つまり良心は、いわゆる〝愛〟と呼ばれる一連の感情と密接にかかわっているのだ。

 

 

この結びつきが、良心にエネルギーをあたえる。

 

 

人が駆りたてられるのは、その燃料が強い愛情であるからにほかならない。

 

 

そして良心の行為を見聞きするとき-たとえそれが犬に餌をやるなどの平凡なことであっても-私たちがうれしくなるのは、良心にもとづく選択が、その奥にあるやさしいきずなを思い起こさせるからだ。(42乃至43頁

 

 

得意わざは空涙(127乃至129頁) 

 

人はサイコパスの演技力にも惑わされる。 

 

良心なしに人生を組み立てるには、欺瞞や幻想が必要になる。 

 

そこで知的サイコパスは演技が巧みになり、プロの役者なみのテクニックまで駆使する。

 

 

そして皮肉にも、自在な感情表現がサイコパスの第二の天性になる。

 



相手の悩みや情熱にたいする興味津々な態度、胸を叩いて訴える愛国心、正義感あふれる憤り、謙虚に赤らめる顔、悲しげなすすり泣き。

 



思いどおりに流す空涙は、サイコパスの得意わざだ。

 

 

サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う

 

だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。

 

 

あるいは逆の出方をする。 

 

追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする

 

 

生まれついての役者である彼らは、社会的・職業的役割をフルに利用する。 

 

それがすばらしい仮面になってくれるからだ。 

 

人は異常な行動を目にしても、それをしたのがたんなるドリーン・リトルフィールドではなく、ドリーン・リトルフィールド博士であれば、疑いをもつことはめったにない。

 

博士という肩書は、明確なプラスの意味をもっており、人は博士と呼ばれる人物についてあまり詮索をしない。

 

 

おなじことが会社組織、宗教組織、教育組織の中で役割と肩書をもつ人物、あるいは国家の指導者や親にも言える。

 

 

役割の持つ意味で個人を判断してしまうからだ。



そしてまた、相手にやさしさや、創造力や、鋭い洞察力を感じたとき、人は相手の実際の行動から目をそらす傾向がある。

 

 

たとえば、私たちは動物が好きだと言う相手を、いい人と思いがちだ。




そして芸術家や教養人を感じさせる相手には、点が甘くなる。



ひとつには、そういう人たちに異常者はいないと思っているからだ。



そのような見方は、一般的には前向きなのだが、ときには真似のうまいサイコパスに扉を開くことになる。

 

***

2016年2月 6日 (土)

知ることが、破壊力を弱める、一助となる -できないものはなにもない人たち-

 

ぜひ知っておいてほしい。

 

だから今夜もご紹介する。

 

***** 

「良心をもたない人たち」16頁より

 
精神病質者(サイコパス)全体に共通するもの

 

そのなかで最もよく目につく特徴の一つが、
口の達者さと表面的な魅力である。


共通して
病的に嘘をつき、人をだます。あるいは〝友人〟に寄生虫のように寄りかかる。いかに高度な教育を受け、社会的地位が高くても、幼年期に問題行動を起こした可能性もある。ドラッグをやったり、少年犯罪でつかまったりしたかもしれない。そしてつねに、いかなる問題にたいしても責任を感じない点は共通している。


感情の浅さも、サイコパスの目立った特徴である。口では愛していると言いながら、その愛情は底が浅く、長続きせず、
ぞっとするほどの冷たさを感じさせる。

 


サイコパスにとって結婚相手が価値があるとすれば、それは所有物としての価値で、彼らは失うことに腹を立てるが、悲しんだり責任を感じたりすることはいっさいない。


セラピストとして私(引用者注:著者)は、心的外傷(トラウマ)を負った人たちの治療にあたってきた。

なかには地震や戦争など、天災や人災がトラウマとなった患者もいたが、大半は悪意の個人によって支配され、精神的に蹂躙された人たちだった。



悪意の個人はサイコパスであることが多く、しかもたいていは他人ではなくサイコパス的な親、年上の親族、あるいはきょうだいだった。


患者とその家族が受けた傷から立ち直れるよう、彼らに手を貸し、病歴や環境歴を調べるうちに、身近にいるサイコパスによってあたえられる傷はいずれも深くて治りが遅く、命取りになる場合も多く、驚くほど共通点があることがわかった。



およそ二五人に一人の割合でサイコパス、つまり良心をもたない人たちがいる。彼らは善悪の区別がつかないわけではなく、区別はついても、行動が制限されないのだ。



頭で善と悪のちがいはわかっても、ふつうの人びとのように感情が警鐘を鳴らし、赤信号をつけ、神を恐れることがない。罪悪感や良心の呵責がまったくないため、
できないことはなにもない人たちが、二五人に一人いる。

 (20頁より)

2016年2月 3日 (水)

応訴の合い間にベラが読む本-「良心をもたない人たち」-

パソコンの横に置いては飽きずに眺めている本がある。

 


「良心をもたない人たち」

 


2006年に出版された単行本の文庫版である。

 


この本で筆者は「良心」とは

 


『愛にもとづく義務感』であり、

 


『愛にもとづく義務感』に欠けているのがサイコパスであると述べている。

 


わかりやすい定義ではないか?

 


この本の帯と裏表紙には、

 


「一見、魅力的だが、うそをついて人をあやつり、

空涙をながして同情をひき、

追いつめられると逆ギレする」のが

 


「良心をもたない人間」

 


つまり「サイコパス」と明記されている。

 


これについては本文の128頁に「サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする。追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする」と述べられており、

 


さらに「生まれついての役者である彼らは、社会的・職業的役割をフルに利用する。それがすばらしい仮面になってくれるからだ。役割は複雑な社会に秩序をあたえるものであり、私たちにとってはきわめて重要なものだ。人は異常な行動を目にしても、それをしたのがたんなるドリーン・リトルフィールドではなく、ドリーン・リトルフィールド博士であれば、疑いをもつことはめったにない。博士という肩書は、明確なプラスの意味をもっており、人は博士と呼ばれる人物についてあまり詮索をしない」と述べられている。

 


他にもご紹介したい文章がいくつかあるので応訴の合い間にまたあらためて抜粋できればと思うが、まずここでは不信感を抱いた人物を追及した時に、涙を浮かべながら同情をひくような内容を聞かされたら、その人物が「生まれついての役者」かどうかを疑うこと、追いつめられた「良心をもたない人たち」は逆恨みをして怒りだし、逆に追及している者を、脅して遠ざけようとすること、さらには「肩書」に惑わされて妄信することなく、時には疑いをもち、その本質を見極めることが大切であると教えてくれているのではないだろうか。

 


私はそう思っている。

2015年2月11日 (水)

筋の通った生き方を貫こう。-「正義」という言葉に照れることなかれ-

「正義の作法」の著者であり、元検察官・弁護士・法学者の河上和雄氏が、

今月7日に肺血症で亡くなられたことを知った。

 


手許にあるこの本から20頁に書かれている言葉を紹介する。


弁護士のモラルは、いまや完全に地に落ちている

 


法律家としての『筋』を曲げてカネに走る弁護士の姿は、そのまま現在の日本社会のあり方に重なるものだ」(21頁)

 

 


いまは日本全体が、貧相な卑しい顔になっているように見える。それは、日本人一人ひとりが自分なりの『正義』を見失っているからではないだろうか」(21頁)

 

 


ウソをついておきながら、それを悪いと思っていない人間ほど、許しがたいものはない

(158頁)

 


世の中から正義を奪うのは、不正行為そのものではない。発覚した不正を認めようとせず、他人に責任を押しつけようとする卑劣な態度が、正義を腐らせる」(173頁)

 

 


この本には「正義」「ウソ」「」という言葉が頻出する。

 


誇り」「モラル」「カネ」という言葉が後を追いかける。

 


正義」という言葉は苦手とおっしゃる向きは多いだろう。

 


だが、この本においては、「自分が正しいと思ったことを貫く」のが「正義」である。

 


「筋を通す生き方」それが「正義」だとすれば、たとえ、周囲から煙たがられようと、
多少世間との間に摩擦が生じようと、怯まずに筋を通すことこそが「正義」である。

 


だが、「正義」を貫くことで不利益を受けている人々の、何と多いことか。

 


故人となられた河上和雄氏は、「現代社会で失われつつあるのが『正義』と『誇り』である」と憂い、


「『頑固者』と言われてもいい、周囲が間違っているときは断固反対を唱え、『筋』を通す必要がある」と強く説いた。

 


「正義」という言葉がどこか面映ゆい、どうもおこがましい、苦手と感じるのであれば、「筋を通すこと」と置き換えてみるのはどうだろう。

 


私の生き方は筋が通っているだろうかと居づまいを正して振り返る時、努力も苦労も大損もして、身体も壊したけれど、こうするしかなかった、これで良かったのだと誇りに思えれば、それで良し。

 


阿諛追従に右顧左眄、私の嫌いな四文字熟語の中から飛び出して来たかのような者どもの面構えを見てみれば、何とも軽く、年ばかり取ってはいても、内容のない、実に薄っぺらい顔をしている。

 


堂々と対峙して自ら意思表示することの出来ない人間は、噛みおわってカスカスになったガムの様に貧相な脳味噌の持ち主でありながら、その自覚がない。

 


貧相な心と身体と脳味噌の持ち主は、常に他人の力に頼り、他者の知恵を借りるばかりで、物事を深く考察せず、幅広く学ばずに、持論や持説を鍛えようとも磨こうともしないから、いつまでたっても考えが脆弱で論を成さず、他者との話し合いを避け続けることしか出来ないのだろう。

 


そして、私の知る限り、人様の力や知恵を借りて利用する者ほど「カネ」が好きなものである。

 


ウソをつきながら、曲がったことをして、上手にカネをつかんでいくのか。

 


筋を通す生き方を貫き、誇りをもって、堂々と胸を張って進んでいくのか。

 


表紙のお写真を見れば、回答は自ずと明らかであろう。

 

Photo


名著への感謝とともに、謹んで河上和雄氏のご冥福をお祈りいたします。

2015年1月10日 (土)

天野ベラの白熱言論⑨-『平気でウソをつく司法』を根絶するために-虚言に毅然と立ち向かい、正論を貫き通せ-

新しい年に眺めた書は、「狂った裁判官」と「正義の作法」だった。

 


応訴や家事の片手間に軽く流し読みした程度で、「読んだ」とまでは言えない。

 


だが、書というものは、たとえ不作法な読み方であっても、手に取った者たちの居づまいを正す言葉や知識を惜しみなく与え刮目させてくれる、賢くも寛大な恩師のような存在である。

 


だから、膝を叩いて共感する内容を見つけることが出来た。

 


今回は「正義の作法」の中から特にひとつを紹介したい。

 

この書の著者は元東京地検特捜部長の河上和雄氏である。

 


ちなみに、裏表紙には


周囲が間違っているときは断固反対を唱え、『筋』を通す必要がある


と書かれている。

 


第三章理に合わない時は闘えの中に「『ルール・オブ世間でウソを許すなとの小見出しがあり、158頁から166頁の言葉は、そっくりそのまま準備書面や陳述書に使わせていただきたい内容だ。

 

早速抜粋しよう。

 


ウソをついておきながら、それを悪いと思っていない人間ほど、許しがたいものはない。」

 


罪悪感を抱いている人間は、バレることを恐れているから、用意周到なウソをつくものだ。ところが、悪いことをしている自覚がない人間は、誰が聞いてもすぐバレるに決まっているようなウソをつく。だから、余計に醜いのである。

 


不祥事を起こした組織は、ほぼ例外なく平気でウソをつく。それも明らかにその場しのぎでしかない、いかにも子どもじみたウソだ。

 


責任を転嫁し、黒いものを白いと強弁することが、悪いことだと思っていないからだ。

 


それどころか、彼らには自分がウソをついているという自覚さえないのかもしれない。

 


正義に対する感覚は、それほどまでに麻痺しているのである。

 


組織のためにウソをつく人間を糾弾する前に、『平気でウソをつかせる世間』の存在を認めている自分自身の生き方を反省すべきである。

 


筋の通った社会を作るには、一人ひとりが『世間』の顔色を見ることをやめ、法やモラルに照らして善悪を見極める姿勢を持たなければならない。

 


この章で著者は、平気で、すぐバレるに決まっているその場しのぎの子どもじみたウソをつく人間たちを許し難く醜いと糾弾すると同時に、平気でウソをつかせる世間の存在を認める生き方への反省も促している。

 


そして、たとえ世間がどうあろうと、一人ひとりが善悪を見極める姿勢を持てと呼びかけて結んでいる。

 


本人訴訟という形で、心ならずも数々の法曹関係者らとの対峙を余儀なくされてきた私にとって、最も耐え難い苦痛は、取りも直さずあからさまに仕掛けられるウソの爆弾であった。

 


それらは、訴状、準備書面、陳述書など至るところに溢れていた。


このことは、きっと本人訴訟で原告や被告となった素人の誰もが最も震撼させられる、最も大きな衝撃であることは間違いない。

 


なぜなら、本人で訴訟を闘う者たちに余裕はないからだ。

 


本人訴訟で原告にならざるを得なかった者は、既に事前の交渉の段階を経ているから、心身ともに疲弊し消耗している。

 


事前に交渉したが、どうにもならなかった。

 


だから、止むなく、最終手段として、お金と時間と体力をかけて訴訟を提起し、暗くて寒い裁判所を訪れねばならなかったという消極的な理由に過ぎない。

 


そもそも、お金をかけずに解決が可能であるにもかかわらず、通知や話し合いの機会を一度も経ずに、いきなり不意打ち訴訟を起こして原告となってまで、相手に多額のお金を請求しようとする行為自体が常軌を逸している。

 


そのうえに、虚偽の主張を書面に盛り込み、被害を捏造して冤罪をきせてまで訴訟を仕掛ける必要性や余地など、普通の人間には到底思いつかない発想でありそんな余裕はどこにもないからである。

 


ところが、社会正義の実現を果たすべき使命を持つ弁護士の主張に、『子どもじみたウソ』が満載なのだから、素人が狼狽し混乱するのは当然である。

 


今回の訴訟においても、「訴状」や「準備書面」、とりわけ、私たち夫婦が人証を求めたにもかかわらず、裁判長が「人証の要なし(本人尋問なし)」と判断し、反対尋問にさらされないことを奇貨とした原告が、裁判所の許可も得ず、一方的に提出してきた「陳述書」(甲49)は、世間にもぜひ読んでいただきたいと思わずにいられない代物であった。

 


現在は記録閲覧が制限され、一般公開が禁じられている原告の「陳述書」(甲49)を熟読した私は、こみ上げる怒りを抑えきれなかった。

 


通常であれば、原告自身が、裁判所のみならず世間にもぜひ聞いてもらいたい思いから書いた筈の「陳述書」(甲49)を、当事者以外の閲覧を禁じさせた事実からも、いかに「陳述書」(甲49)の内容がウソの羅列であるかが立証されている。

 


そんな「陳述書」(甲49)に記載されているウソのひとつひとつに下線を引き、余白に反論や根拠を書き込んでいく作業は、気が遠くなるほど膨大で精神的にも身体的にも消耗させられことごとく悩ませられる。

 


頁をめくる度にまことしやかな大ウソが激しく炸裂する「陳述書」(甲49)を朝から晩まで読みながら、粛々と続ける作業は何にもまして耐え難く、怒りは激怒から憤怒へと代わり、当然の如く食事も喉をとおらなくなった。

 


気がつけば、異なる血液型でも輸血されたかのように、嫌悪感と拒否反応が身体中から溢れ出て、かつてない激痛を伴う大出血で「虚血性腸炎」を発症し、救急病院に10日間の入院となった。

 


拙ブログを長く閲読しておられる方々にはたぶんお分かりいただけるだろうが、私たち夫婦は愚直で生真面目な性分である。

 


だから、ひとつひとつの主張に具体的根拠を提示し、疎明資料として可能な限りの証拠を提出するが、原告代理人である弘中惇一郎・絵里弁護士らは、「
被告の記事はその多くが真実ではない」「原告の記憶に誤りはない」などと、訴状においても、準備書面においても、具体的根拠も疎明資料も提出せず、一方的に押しつけて屈服させようとする主張を展開してはばからず、既に確定している判決における争いのない事実をも改竄しようとし、既判力すら覆す勢いで、断固ウソの主張を言い張るのである。

 


原告は、具体的根拠もなく、私たち夫婦が「数々の虚偽の事実を記載した」と主張するだけで、具体的な反論も提出せず、私たち夫婦の主張を、具体的根拠もなく、一方的に「虚偽の事実」と言い張る。

 

ほんの一例を挙げれば、何としても「アルバイトホステス」という職種を「皿洗い」に改竄したいようで、「週2~3回」の勤務を「週1回」と改竄し、副業で夜に勤務をしていた時期を「平成8年から1年弱」(前回訴訟判決)であったのに、「平成6年ころ」(今回訴状)「平成7年2月ころから半年」(今回原告準備書面(1))と変遷させ、ウソの陳述を重ねて改竄を繰り返している。

 


時給2千円の高級皿洗いなどいない。

  

 

それに、午後7時から深夜12時まで5時間も立ちっぱなしで、せっせと洗うような「皿」など、カウンター中心の小さなバーには存在しないと主張しても認めず、反論をする代わりに「皿洗いをしていた」と言い張って、聞く耳を持とうとしないのだから、弁論以前の問題で、争いにもならない。

 

私たち夫婦は下記のとおり反論した。

 

 
(2)
被告らが本件ブログ等に数々の虚偽の事実を記載していないこと

  
原告は,「原告が問題視しているのは,被告らが,被告らのブログ等において,こうした原告のブログの記事を材料にして,数々の虚偽の事実を記載し,原告を誹謗中傷していることであり,こうした行為が原告の社会的評価を低下させていることは明らかである。」と主張するが
616行目),まったくもって事実に反する。

 
原告は,「数々の虚偽の事実」と論難するにとどまるものであって616行目),例によって,何ら具体的根拠や疎明資料とともに論理的に述べてはいない。

被告らが数々の虚偽の事実を記載した」と主張するのであれば
616行目),ひとつでも具体的根拠を示し,証拠を提出して客観的かつ具体的に立証しなければならないことは明らかである。 

 


(3)
原告が「琥珀」の勤務時期および被告ベラへの支援要請を途絶えさせたとする時期について常軌を逸した主張を繰り返していること



平成25年9月11日提出の原告準備書面(1)において,原告が「『琥珀』勤務は平成7年2月ころから半年ほどであり,それ以降被告ベラとの交流がなくなっていったとの原告の記憶に誤りはない」(13頁)との事実無根の不毛な主張を性懲りもなく反復・継続している事実については既に平成25年9月18日付け被告準備書面(3)で述べた。

ところが,原告は同店勤務について,平成25年4月5日提出の「訴状」においては「平成6年ころ」(訴状25頁)と主張しており,本来であれば「訴状訂正申立書」を提出すべきところ,短期間のうちに主張を変遷させているものであり,極めて軽率であるとともに信用してはならない。

しかも,「原告の記憶に誤りはない」(13頁)どころか既に平成23年(2011年)5月18日の時点で「最近とみに記憶力が乏しくなった私」と自認し(乙9923)平成22年(2010年)11月17日には「記憶で蘇らせることのできる情報はたぶん1%もないかもしれない」(乙9912)と自らのブログ記事に書いて一般公開しているとおり,原告の記憶が誤りだらけであることを自認していながら何ら根拠も証拠も示さず,さらに平成21年の前回訴訟における「答弁書」での認否ならびに「判決文」での争いのない主張すなわち「平成8年ころ新宿歌舞伎町のスナック琥珀で手伝いをしたこと(略)は認める」(甲29・確定判決文5頁)との,既に確定した既判力を有する内容をも強引に改竄しようと謀る原告の主張は,どこまでも不正であり悪質である。

なお,この動揺ぶりは,原告が平成6〜8年ころ天野一家と交流していなかったことにしなければならないような大きな理由が存在し,それ故に原告が身を潜めて逃避してきたことの表れである。

 
どの弁護士も同様なのだろうが、弘中弁護士が罪悪感なく平気でウソをつき通した事実は、他の訴訟にも見受けられる。

 


有名な武富士訴訟においても、原告訴訟代理人であった弘中惇一郎弁護士は、武富士で暴力的な指導が行なわれていた様子を「
廊下から目撃した」との被告の主張に対して、「廊下のある支店などないからウソだ」と反論している。

 


ところが、後に「
武富士に廊下のある支店が存在する」事実が明らかとなってもなお牽強付会な言い訳とともに平気で「ウソだ」と言い張って認めない。

 


どこまで厚顔なのだろう。

 


いきさつが書かれた記事を貼るのでご高覧いただきたい。

 


http://www.mynewsjapan.com/reports/527


訴える方はただ「全部ウソ」と言うだけ

 

三宅 そうですね。争点のひとつは、たとえばこんな感じ。「支店長が暴力的な指導を受けているさまを、ガラスの壁越しに廊下から目撃した」という記述に対して、武富士は「廊下のある支店などない。だから嘘だ」と言ってきたわけですが、現場検証するとちゃんと廊下はある。

 「あるじゃないか」と反論すると、今度は「関西弁を話す社員などいない。だから嘘だ」と。では、関西弁を話す社員が本当にいることを見つけ出して、反論する。すると、次は「取材に応じた社員は素行の悪い人間だから証言は信用できない」という感じ。

 当然、まったくのでっち上げ、誹謗中傷ですよ。でも反論しないと負けますから反撃材料を必死で探しました。

 


「武富士の裁判所での反論の、唖然とする支離滅裂さである。」

「簡単にばれる嘘で裁判を勝とうと思っていた


との記事もあった。

 

http://kinpy.livedoor.biz/archives/50656953.html

 


司法にウソが蔓延している事実について、昨年(2014年)のツイッターから、恫喝訴訟を体験したジャーナリストたちの言論を3件紹介する。

 


このところスラップ(名誉毀損訴訟)の訴状を検証する機会が増えている。気づいたことが1点ある。訴訟ビジネスで金儲けする弁護士が書いた訴状には、誇張した表現(たとえば、「回復が不可能な損害を与えた」「悪質さは常道を逸する」)や、明らかな嘘がやたらと多いということだ。【続】」「【続】もともと文を綴る作業は、言葉を媒体としてひとつひつとの事実を確認し、漠然とした思考や状況を客観的に浮かび上がらせる意義があるのに、これでは事実を誤魔化すために、言葉を悪用していることになる。実にレベルが低く、下劣だと感じる。こういう弁護士に限って、自由や人権を看板にする。

5:25 - 201464

 


このところスラップ(恫喝裁判)が多発している。この種の裁判で、原告のモラルが問題視されることは、半ばあたりまえになっているが、タブーになっているのは、訴訟の『仕掛け人』、弁護士に対する責任追及だ。訴訟ビジネスで大儲けしている輩がいる。

4:46 - 2014820

 


SLAPP訴訟は「提訴することで相手を怒らせ、裁判という泥沼に引きずり込む」「相手を怒らせて疲弊させる」ことも作戦のひとつなのですから、訴状にはムチャクチャな主張が書いてあるのが自然です。おとり、でっち上げ、ウソ、言いがかり、なんでも使います。怒ると敵の思うツボです。

良心に従って真実を述べ,何事も 隠さず,偽りを述べない旨を誓います

2014年6月17日 (火)

絶望の裁判所

久々に買いたいと思う本であった。

早速取り寄せてやっと読み終えた。

 


それが、33年間裁判官を務め、現在は明治大学法科大学院の専任教授に転身し学者となった瀬木比呂志氏著『絶望の裁判所』である。

 


瀬木氏が裁判官をやめた理由のひとつはこうだ。

 


裁判所にも、裁判官のマジョリティーにも、ほとほと愛想が尽きたということもある。はっきりいって、顔も見たくないというタイプが少しずつ増えてきていた。」(頁41

 


2014年1月1日の「あとがき」に書かれている。

 


「『床を見てごらん、汚れている。掃かなきゃならない』日本の司法というあなたの前のステージは、ピラミッド型ヒエラルキーのキャリアシステムと、その奴隷であり、それに毒された裁判官たちとによって、すっかり汚されてしまっている。」
(頁235

 


私たち夫婦、すなわち天野コグちゃんとベラが現在応訴活動に追われ日夜闘っている司法において、老夫婦の残り少ない人生を左右する総額6000万円もの超高額請求訴訟に、僅か3か月で口頭弁論終結を打ち出され仰天するなど、砂を噛むような実感とともに懸念していたとおり、

談合裁判、判決内容の事前リーク、東京地裁
内の出来レース選挙」(頁22)「こうした不正は、裁判の基本的な公正を害する行為なのだが、おそらく、日本の司法においては、さまざまな場所にさまざまな形で存在するのではないかと思われる」(頁23)「表に出さえしなければ大抵のことは許されるという感覚」(頁24)が蔓延している。

 


裁判官としての33年間に瀬木氏が観察・研究した他の裁判官らについて、


かなりの数の裁判官に、これから論じていくような、いびつな、ゆがんだ精神構造という問題があることは、私の経験からしても、否定できないと思う

(頁174)との「裁判官の精神構造の病理」の項より下記に抜粋したので、ご一読いただきたい。

 


「裁判官の精神構造の病理」


(1)一枚岩の世界、内面性の欠如、内面のもろさ


(2)エゴイズム、自己中心性、他者の不在、共感と想像力の欠如

自分だけがかわいく、自分にはいいことがあって当然、そして、いいことが自分を差し置いてほかの人にあることは許せない、というタイプが非常に多い。したがって、特別な好意でしてあげたことについても、全く感謝せず、当然と思っていることが多い。


(3)慢心、虚栄

裁判官の慢心にも、度し難いものがある。内心では自分よりえらいものはないと思っている場合が非常に多く、(中略)実際には一つとして特別なところなどないにもかかわらず、自分こそは特別だと思っている例が多いことである。


(4)嫉妬

裁判官の嫉妬深さも尋常ではない。私も、本を出すようになってから、嫉妬に基づくとしか考えにくい中傷をたびたび受けた。


(5)人格的な未熟さ、幼児性

以上のような精神構造の病理の根にあるのは、結局、人格的な未熟さであろう。私は、子どものような部分をもっている人間が好きだが、それは、老成した人格の中に子どものような純粋さや無邪気さ、好奇心、素直な共感の力などが残っている場合のことである。裁判官の場合は、そうではない。ただ単に人格的に幼いのであり、聞き分けのないむら気でエゴイスティックな幼児性なのである。感情のコントロールができず、すぐに顔色を変えることが、その一つの現れである。また、裁判官によくある、異常にぶしつけな行動も、こうした幼児性の現れである。こうした人物の特徴は、キャリアシステムにおける自分の地位に異常ともいえる執着をもっており、価値観が一面的で視野が非常に狭く、自分とは異質のものを理解する能力に全く欠けているといったことである。


(6)建前論、表の顔と裏の顔の使い分け

何かにつけ建前でものをいい、考える人が多い。そういうことを続けているうちに、自分の中の生きた感情を見詰める眼を失ってしまい、柔らかさ、人間としてのニュアンスや色合い、寛容さやおおらかさ、広い意味での人間的なエロスといった微妙な美点についても、同様に失っていくことになる。


(7)自己規制、抑圧

排除、懲罰、報復がきわめて過酷な社会であることについて述べたが、このことを裁判官のほうからみれば、「裁判所当局や周囲との関係からしないほうがよいのではないかと思われること」のラインが、心の中に克明に引かれていることになる。彼らはこうした精神的自己規制の下、周囲の目や思惑ばかり気にしながら、自分を抑圧して生きている。

また、裁判官の中には、若いころにはおとなしかったのに、所長になると豹変して典型的な権力者タイプになる人がままみられるが、これも、それまでの間の自己規制と抑圧の反動であろう。裁判官の不祥事やハラスメントについても、同様に、反動としての側面は大きいと思われる。


(8)知的怠慢

今日の裁判官に、深い教養の持主はめったにいない。視野の広い人も少ない。そもそも、専門外の本を読んだことなどほとんどないという人も多く、裁判官なら本来ある程度は備えていてもよいはずの、心理学、精神分析、カウンセリング等の事柄に関する知識すら、一応でも備えている人はまれである。一般的な学識や教養には乏しく、したがってものの考え方にパースペクティヴやヴィジョンを欠いており、しかも、法律さえわかっていればえらいと思っている。そうした意味での知的怠慢は、かなりの程度に蔓延しているといってよい。


(9)家庭の価値意識

裁判官の家庭では、親の硬直した価値意識が家庭に直接侵入してくる傾向が強い。そうすると、家族のメンバー、ことに子どもたちにとっては安息の場所がなくなり、それがまた、親にも反映していくことになる。その結果、裁判官の子どもには、一般に知的能力は高いにもかかわらず、さまざまな問題が生じることが多いように感じられる。登校拒否、引きこもり、自殺等、私が知っている範囲だけでもかなりの数を数えることができ、問題の根は深いという気がする。


(10)まとめ

以上のような裁判官の精神構造の病理については、修習生、すなわち一種の学生がすぐに裁判官になる、それも、きわめて問題の多い日本型キャリアシステムの裁判官になることによって、本来であれば社会生活の中で矯正されていくはずの個人的な欠点が、矯正されるどころか逆に増幅されていくことによる問題という側面が大きいのではないかと考える。

本来、裁判官などという職業は、さまざまな人生経験を経て、酸いも甘いも相当程度に噛み分けられるようになってから就くことが望ましい。それだけの包容力や耐性をもっていないと、人の運命を左右するこの職業は、それも医師とは違って、国家権力、審判者という立場からそれに関わるこの職業は、精神的な負担が大き過ぎ、荷が重すぎるのである。

たとえば、法科大学院の模擬裁判の授業における裁判官役の学生の中にすら、急にテンションが上がって切り口上になる人が何人も出てくるのをみるだけでも、そのことはよくわかる。それに加えて、前記のようなシステムが大きな精神的圧迫を加えてくるわけであるから、元々が坊ちゃん、嬢ちゃんの優等生であった若手判事補たちは、ゆがんでいったり、その欠点が異常に増幅されていったりすることになる。ことに、近年の若手は、育ちがよくてものを知らないから、どんな色にでも簡単に染まる。実際、よいところ、みるべきところのあった若手判事補たちでさえ、その少なからぬ部分が、十数年も経過するころにはかなりの奇人変人になっているのをみるときほど、裁判官をやっていてがっかりさせられることはない。


以 上

2013年11月22日 (金)

韓国で有害図書の指定を受け、事実上発売禁止処分となった実話

本日は、金完燮(キム・ワンソプ)著・「和夫一家殺害事件」を紹介する。


2002年に韓国で出版、邦題「親日派のための弁明」という本の中から

「キム・ソンス君の証言」より。


事件に加わった当時のキム・ソンス少年が後年に告白した実話とされる

この本は、韓国で有害図書の指定を受け事実上発禁処分となったそうだ……

 


「和夫一家殺害事件」キム・ソンス君の証言



 
日韓併合時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明らかに立派な人々も多かった。


普段から人情に厚かった和夫は、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。


貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与え、
 
村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。


和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたがその数は一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。


けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。

和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。


しかし彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害された。



その日、和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。


当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。


和夫(優しい目で)「何故こんなことを、お前たち。」


朝鮮人A「チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!」



和夫:(わざと怒り声で)
 
「私が何かお前たちに間違った事をしたかい? 
 
お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
 
お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。
 
踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところにつめかけてきたんだ? 
 
私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。


(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。
 
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい?
 
お前たちが望むんなら、帰ってやろう」


朝鮮人A 意味深長な目配せをBに送る。
 
(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)


朝鮮人B「死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!」


次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。


和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。


それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。

そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた。


彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。


朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。


和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた。


普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。


当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。


その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。


結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
 
「ひみこ」は小学六年生だった。


和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった。

 


http://yusan.sakura.ne.jp/library/korea_kazuoikka/

 


http://bbs.jpcanada.com/log/6/2950.html

 

2013年5月23日 (木)

拙著より

2005年10月15日、「ルサンチマンは女の宿痾」を自費出版した。

この本を宣伝したところで、印税が私に入ることはないし、利益がもたらされることもない。



その点を明確にしたうえで、一部を抜粋する。

 

*********************************************


「ルサンチマンは女の宿痾」 天野ベラ


-どこまでも付け上Girl,群れたGirlどもへ-


246頁女たちと付き合うためのヒント」より


247頁
最高の弁護士は自分


 
 

 女として生まれた以上、集団でのいわれなき中傷や誹謗に耐えなくてはならない時がきっとある。


そんな時、あなたを助けるのは、取り敢えずあなた自身だ。 


私は常に、「大丈夫!私にはこんなに強い私がついているじゃない」と言い聞かせながら数々の困難を乗り越えてきた。


自分は自分の最高の弁護士」と信じて、一歩一歩着実に歩んでいこう。


この訓練は、生涯の支えとなる。



249頁自分でできることは自分でする


 私も体験したが、裁判だって弁護士に頼らず本人訴訟で起こすことができる。


何でも人任せにして終わらせることなく、先ずは自分の目で確かめてみよう。


たとえ失敗しても、投げ出さずに遣り遂げれば掴めるものがある筈だ。



他人を頼るのではなく、自分を頼って、倒れる一歩手前まで全力を尽くしてみよう。



*********************************************

2013年2月 8日 (金)

号外! 池澤ショーエンバウム直美氏の座右の銘は、「ま、いいか」だった! 「ま、いいか」と「ミピラージ(気にしない)!」の二語で人生を渡って来た、筋金入りの自己中老女は、誰の言うことにも耳を貸さず、好き勝手に生き続ける!

最近のフォトを少し公開させていただく。



ゲランで、ハンドタオルをいただいた。


素朴な色で使いやすかった。



Dsc03263


限定品なので、お母さんの介護に努めている友人にお裾分けした。

 

 

主人と一緒のプロジェクトを頑張っている人に、主人と連名で、



バレンタインに届くようチョコレートをお贈りした。

 

Dsc03316

こぐちゃんに選んでいたら、「安いのでいいよ」と

遠慮していたので、モロゾフにした。

赤いパッケージが美しい。

 

ついでにウエストの焼き菓子も。


いつ食べても変わらない美味しさっていい。

 

Dsc03329

 

それにつけても、今朝の風の冷たさといったらどうよ?!


こんな日に外出しなければならないとは……



全身がみじん切りにされるようだった。

 


加齢のせいか、冬の寒さが骨身に沁みる。



最晩年の冬は外出せずに、家で俳句とか作りながら過ごしたいと思う今日この頃。

 


さて、本日は、シリーズでお伝えしている直美氏の偽善ぶりから少し離れて、直美氏が、生活信条ともいうべき「座右の銘」として雑誌に載せていた言葉をお伝えしよう。

 

それは、扶桑社という、フジサンケイグループの雑誌社から発行されていた「EFiL(エフィル)」が廃刊になった2011年7月号に載っていたようだ。

 


直美氏の言葉が掲載された最後の版は、2011年6月1日に発売されたそうだ。



このことについて、直美氏は、2011年6月2日のブログにこう書いている。

 

 さて、そんな6月最初の日に発売された「とある」女性誌に、写真付きで小さな記事が載りました。「とある」なんて恥ずかしそうに言っていること自体、全然南国的ではありませんけれど、ご一緒した他の方々の顔ぶれがあまりにゴージャスなのものですから、やっぱり気恥ずかしくて、、、、、美容ジャーナリストの齋藤薫さんと、女優の羽田美智子さんと本上まなみさんなんですから。

 


直美氏は、雑誌で自分と一緒に紹介されている、各界で活躍するメジャーな女性たちの名前は書き連ねたが、マイナーな雑誌の名前は伏せて、「とある」女性誌とだけブログ上に公開していた。

 


直美氏にとって都合の良い部分だけを紹介し宣伝したことで、見え透いた虚栄心がよく伝わってくる。

 


なぜなら、直美氏が世間に伝えたいことは二つだけ、ひとつは、写真付きで雑誌に出たこと、もうひとつは、自分と同じ頁を飾っている他の豪華な顔ぶれについてだからだ。

 


直美氏が吹聴・喧伝したいこと、それは、ワタクシ、雑誌に出たんですぅ!!し・か・も、どの美容誌にもひっぱりだこの、アノ齋藤薫さんと、テレビや映画で大活躍されている、アノ羽田美智子さんに、女優でエッセイストの、アノ知的な本上まなみさんとご一緒に。ワタクシは、他の女性たちとまったくひけをとっていない、対等なんですよぉ!!ということであろう。



私は、こういう言葉を、こういう思いとともに語りました。

皆様はどうお思いになりますでしょうか、そして、皆様を元気にしてくれる言葉や皆様の座右の銘とはどのような言葉でしょうか、これを機会にお考えになってみてはいかがでしょう、といった内容をブログに書いたのではない。

 


いかにも、外貌重視、外聞と世間体が総てで、中身などバレなきゃどうでもいいさと考えているかの直美氏らしい。

 

さらに、その後、直美氏は、この雑誌が廃刊になってから、つまり、一般読者が立ち読みしたり、買ったりすることが出来なくなってから、オフィシャルホームページのTopicの欄に「エフィル」と書いて雑誌の名前を公開したのであった。

 


そのため、私は買うことも見ることも出来なかった。

 


すると、先日、直美氏が責任者として開いた「チャリティコンサート」について詐欺まがいの行為として糾弾するため、ネットを検索していた際に、「オリーブオイルソムリエかおっちのひとりごと」という日本オリーブオイルソムリエ協会に勤務する女性のブログにこの記事が紹介されていたのだった。

 


そこに、直美氏の「座右の銘」を見つけた。



それは、タイトルにもある通り、「ま、いいか」であったのだ。

Photo

http://ameblo.jp/myolive/entry-10925081367.html#main

 

 

フジサンケイビジネスアイつながりか何かは不明だが、在日特権と、在日ネットワークとをフル活用し、頼み込んで、廃版になる雑誌ならばどうにかなると、豪華メンバーに伍して(ごして・肩を並べて)載せてもらった記事だったとしても、座右の銘が「ま、いいか」というのは如何なものか。

 


他の若い美容ジャーナリストや女優さんが深い言葉を載せているというのに、60歳を過ぎた直美氏が、「ま、いいか」を座右の銘として載せているようでは、恥ずかし過ぎはしないか。

 


他のメンバーたちの言葉を知った直美氏は、通常とは異なり、自分が刺身のツマの如き存在であり、他の3名の引き立て役であり、ともすれば笑い者にもなり下がりかねないと感じたことから、ブログ上で、自分の生活信条を紹介できなくなったに違いない。

 


そして、雑誌の名前ごと隠蔽して、内容について知らせないようにしたとしか思えない。

 


だが、錚々たる(そうそうたる)女性たちと比肩(ひけん・同等に)して、顔写真付きで雑誌に載ったことをどうしても世間に知らせたかった直美氏は、そのことについては、ブログ上に公開し、肝心の内容と雑誌の名前については、読まれたくないから、ブログ上に公開しないという、きわめてアンバランスなやり方をしなければならなかったのだろう。

 


このことから、直美氏という人物は、常に自分のことだけを考えて、自分を飾り、持ち上げ、浮かび上がらせて実力以上に見せかけてくれるような自分に都合の良いことや、或いは自分が書きたいと思った内容であれば、他人の病気や過去などプライバシーを侵害しようとどこまでも具体的にブログ上で公開することがおわかりいただけるのではないだろうか。

 


一方で、自分にとって損になったりウソをついてごまかしていたり、部分的に少しでも自分に都合の悪い点があったりすれば徹底的に隠蔽し、じゃがいもの芽を切り取るようにブログ上からつまみ出してはばからない、極端な行動のとれる老女であるということについてもおわかりいただければと思う。



都合が悪いブログ記事内容の一部を削除して改竄したり、記事の総てを削除した事実も既に多数確認されている。

 


本日は、直美氏の座右の銘である「ま、いいか」をご紹介するとともに、「ま、いいか」という言葉が座右の銘であるとの事実から見てとれる、直美氏の徹底した「自己都合主義」否、「自己中心主義」について語るにとどめよう。

2012年6月30日 (土)

2012年6月18日発行「その女在日につき」-あとがきに代えて-

私たち夫婦は、その女に対して、契約不履行等損害賠償請求訴訟を提起し、勝訴した。


その女は、裁判所から、「四万二千三百円及びこれに対する平成二十二年四月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。」と命じられて、電話で約束した金額を、請求どおり私の銀行口座に振り込まねばならなくなり、一年五か月を経て支払った。

 

 

口では「支払います」と何度も豪語しておきながら、本当はお金を出したくないばっかりに、その女は筋違いの悪あがきや無駄な抵抗をしてきたのだが、自己の発言に責任をもって約束どおり全額を支払ってさえいれば、法廷闘争にまで発展することはなかったのだ。

 

 

その女との通話後、私は体調を増悪させ、腹痛による緊急入院や急患への飛び込みを重ね、現在も消化器内科に通院中である。

多大な犠牲を払ったその女への訴訟であったが、前述のとおり裁判所から、その女に支払命令が出され、さらに、その女が「発言した記憶はない」「時効だ」と主張したきり、登庁することなく、日韓弁護士協議会に所属する鈴木利治弁護士に丸投げして、だんまりをきめこみ、逃げ切っていた過去の暴言「なんで、天野なんかと」「よく、天野なんかと」についても、裁判所は、「被告が発言したと認められる」と明確な判断を下した。

 

 

訴訟を提起したことによって、過去の暴言が「その女の発言である」と判示され、その女の通話中の発言が「穏当を欠く内容」と認定されたのである。

 

 

だが、殺人事件において時効が撤廃されたように、言葉の暴力によって、何度にもわたり人の心を殺した罪に時効はない。

 

 

その女への最後のメールに、私は次のとおり記した。

「私から攻撃したことは一切ありません。ただの一度も、私から失礼な態度を取ったり、暴言を吐いて友人を傷つけたこともありません。」と。




つまりその女は、長きに亘って私を欺き、一方的に憎悪を募らせていたのであった。

その女が「記憶にない」「時効だ」と逃げ続けていた暴言がその女の本音であり、「その女の発言である」と認定された以上、当然謝罪があってしかるべきであろう。

 

 

最愛の主人に対する初対面での無礼きわまりない暴言や、「あなたのプロフィールから『立教女学院高等学校卒業』を至急削除してください。母校の名誉のためにも」とのいわれなき強要で結ばれた、私への「脅迫状」送付をも含めて、その女が、日本人である私たち夫婦に謝罪することなど断じてない。

しかるに、私の中で、その女への訴訟は死ぬまで続く。

否、死後もなお続くのである。

 

 

本書が完成するまでには、いつも、たゆみない努力とともに、根気良く笑顔で取り組んでくれた、天使のような主人の、多大な犠牲があった。

 

 

主人は、出版社が校正や修正をしやすいように、頁ごとの一覧表にまとめるという手間のかかる作業を黙々とこなし、表紙や写真など細々とした要望を迅速かつ正確に伝える窓口となってくれた。面倒だ・疲れたといった愚痴やぼやきを主人が漏らしたことは、ただの一度もなかった。

 

 

主人の力によって、かくも早い出版が果たせたことを、喜びとともに奇跡のようにかみしめている。

 

 

残り少ない私の人生、

在日暴言魔を生涯の敵とし、

大好きな主人と

これまで以上に

仲良く暮らしていければ

それでいい。

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