書籍・雑誌

2016年3月17日 (木)

自己愛以外の愛情を知っていますか?

応訴作業・応訴活動に余念のない日々が続いている。 

 

そんな明け暮れの中、私が繰り返し読んでいるのは

 

 

「良心をもたない人たち」という著書である。

 

 

商品の説明

 

内容(「BOOK」データベースより)

 

平然と嘘をつき、涙で同情を誘い、都合が悪くなると逆ギレをする―本来、人間に備わるはずの良心をもたないがゆえに、他者への思いやりが絶対的に欠落し、手段を選ばずに自分の欲望を満たそうとする人たちがいる。25人に1人いるとされる“良心をもたないサイコパス”の実態を心理セラピストが明かす。

 

彼らの被害者にならないための見分け方と対処法を教える一冊。 http://www.amazon.co.jp/%E8%89%AF%E5%BF%83%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-%E8%8D%89%E6%80%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B5-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%88/dp/4794219296

 

  

良心とは何か?

 

 

追いつめられたサイコパスが取る行動とは?

 

 


折に触れ、内容をご紹介していきたいと思う。

 

 

***

 

 

良心はおこなったり、考えたりするものではない。私たちが感じるものだ。

 

 

言葉を変えると、良心は行動でも認識でもない。良心は本来、〝情動〟すなわち一般に感情と呼ばれているものの中に、存在している。(41頁

 

 

心理学的に言うと、良心はべつの生き物(かならずしも人間とはかぎらない)ないし人間の集団、あるいは人類全体への感情的な愛着から生まれる義務感である。

 

 

良心はだれか(あるいはなにか)との感情的な愛着なしには存在しない。

 

 

つまり良心は、いわゆる〝愛〟と呼ばれる一連の感情と密接にかかわっているのだ。

 

 

この結びつきが、良心にエネルギーをあたえる。

 

 

人が駆りたてられるのは、その燃料が強い愛情であるからにほかならない。

 

 

そして良心の行為を見聞きするとき-たとえそれが犬に餌をやるなどの平凡なことであっても-私たちがうれしくなるのは、良心にもとづく選択が、その奥にあるやさしいきずなを思い起こさせるからだ。(42乃至43頁

 

 

得意わざは空涙(127乃至129頁) 

 

人はサイコパスの演技力にも惑わされる。 

 

良心なしに人生を組み立てるには、欺瞞や幻想が必要になる。 

 

そこで知的サイコパスは演技が巧みになり、プロの役者なみのテクニックまで駆使する。

 

 

そして皮肉にも、自在な感情表現がサイコパスの第二の天性になる。

 



相手の悩みや情熱にたいする興味津々な態度、胸を叩いて訴える愛国心、正義感あふれる憤り、謙虚に赤らめる顔、悲しげなすすり泣き。

 



思いどおりに流す空涙は、サイコパスの得意わざだ。

 

 

サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う

 

だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。

 

 

あるいは逆の出方をする。 

 

追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする

 

 

生まれついての役者である彼らは、社会的・職業的役割をフルに利用する。 

 

それがすばらしい仮面になってくれるからだ。 

 

人は異常な行動を目にしても、それをしたのがたんなるドリーン・リトルフィールドではなく、ドリーン・リトルフィールド博士であれば、疑いをもつことはめったにない。

 

博士という肩書は、明確なプラスの意味をもっており、人は博士と呼ばれる人物についてあまり詮索をしない。

 

 

おなじことが会社組織、宗教組織、教育組織の中で役割と肩書をもつ人物、あるいは国家の指導者や親にも言える。

 

 

役割の持つ意味で個人を判断してしまうからだ。



そしてまた、相手にやさしさや、創造力や、鋭い洞察力を感じたとき、人は相手の実際の行動から目をそらす傾向がある。

 

 

たとえば、私たちは動物が好きだと言う相手を、いい人と思いがちだ。




そして芸術家や教養人を感じさせる相手には、点が甘くなる。



ひとつには、そういう人たちに異常者はいないと思っているからだ。



そのような見方は、一般的には前向きなのだが、ときには真似のうまいサイコパスに扉を開くことになる。

 

***

2016年2月 6日 (土)

知ることが、破壊力を弱める、一助となる -できないものはなにもない人たち-

 

ぜひ知っておいてほしい。

 

だから今夜もご紹介する。

 

***** 

「良心をもたない人たち」16頁より

 
精神病質者(サイコパス)全体に共通するもの

 

そのなかで最もよく目につく特徴の一つが、
口の達者さと表面的な魅力である。


共通して
病的に嘘をつき、人をだます。あるいは〝友人〟に寄生虫のように寄りかかる。いかに高度な教育を受け、社会的地位が高くても、幼年期に問題行動を起こした可能性もある。ドラッグをやったり、少年犯罪でつかまったりしたかもしれない。そしてつねに、いかなる問題にたいしても責任を感じない点は共通している。


感情の浅さも、サイコパスの目立った特徴である。口では愛していると言いながら、その愛情は底が浅く、長続きせず、
ぞっとするほどの冷たさを感じさせる。

 


サイコパスにとって結婚相手が価値があるとすれば、それは所有物としての価値で、彼らは失うことに腹を立てるが、悲しんだり責任を感じたりすることはいっさいない。


セラピストとして私(引用者注:著者)は、心的外傷(トラウマ)を負った人たちの治療にあたってきた。

なかには地震や戦争など、天災や人災がトラウマとなった患者もいたが、大半は悪意の個人によって支配され、精神的に蹂躙された人たちだった。



悪意の個人はサイコパスであることが多く、しかもたいていは他人ではなくサイコパス的な親、年上の親族、あるいはきょうだいだった。


患者とその家族が受けた傷から立ち直れるよう、彼らに手を貸し、病歴や環境歴を調べるうちに、身近にいるサイコパスによってあたえられる傷はいずれも深くて治りが遅く、命取りになる場合も多く、驚くほど共通点があることがわかった。



およそ二五人に一人の割合でサイコパス、つまり良心をもたない人たちがいる。彼らは善悪の区別がつかないわけではなく、区別はついても、行動が制限されないのだ。



頭で善と悪のちがいはわかっても、ふつうの人びとのように感情が警鐘を鳴らし、赤信号をつけ、神を恐れることがない。罪悪感や良心の呵責がまったくないため、
できないことはなにもない人たちが、二五人に一人いる。

 (20頁より)

2016年2月 3日 (水)

応訴の合い間にベラが読む本-「良心をもたない人たち」-

パソコンの横に置いては飽きずに眺めている本がある。

 


「良心をもたない人たち」

 


2006年に出版された単行本の文庫版である。

 


この本で筆者は「良心」とは

 


『愛にもとづく義務感』であり、

 


『愛にもとづく義務感』に欠けているのがサイコパスであると述べている。

 


わかりやすい定義ではないか?

 


この本の帯と裏表紙には、

 


「一見、魅力的だが、うそをついて人をあやつり、

空涙をながして同情をひき、

追いつめられると逆ギレする」のが

 


「良心をもたない人間」

 


つまり「サイコパス」と明記されている。

 


これについては本文の128頁に「サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする。追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする」と述べられており、

 


さらに「生まれついての役者である彼らは、社会的・職業的役割をフルに利用する。それがすばらしい仮面になってくれるからだ。役割は複雑な社会に秩序をあたえるものであり、私たちにとってはきわめて重要なものだ。人は異常な行動を目にしても、それをしたのがたんなるドリーン・リトルフィールドではなく、ドリーン・リトルフィールド博士であれば、疑いをもつことはめったにない。博士という肩書は、明確なプラスの意味をもっており、人は博士と呼ばれる人物についてあまり詮索をしない」と述べられている。

 


他にもご紹介したい文章がいくつかあるので応訴の合い間にまたあらためて抜粋できればと思うが、まずここでは不信感を抱いた人物を追及した時に、涙を浮かべながら同情をひくような内容を聞かされたら、その人物が「生まれついての役者」かどうかを疑うこと、追いつめられた「良心をもたない人たち」は逆恨みをして怒りだし、逆に追及している者を、脅して遠ざけようとすること、さらには「肩書」に惑わされて妄信することなく、時には疑いをもち、その本質を見極めることが大切であると教えてくれているのではないだろうか。

 


私はそう思っている。

2012年6月30日 (土)

2012年6月18日発行「その女在日につき」-あとがきに代えて-

私たち夫婦は、その女に対して、契約不履行等損害賠償請求訴訟を提起し、勝訴した。


その女は、裁判所から、「四万二千三百円及びこれに対する平成二十二年四月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。」と命じられて、電話で約束した金額を、請求どおり私の銀行口座に振り込まねばならなくなり、一年五か月を経て支払った。

 

 

口では「支払います」と何度も豪語しておきながら、本当はお金を出したくないばっかりに、その女は筋違いの悪あがきや無駄な抵抗をしてきたのだが、自己の発言に責任をもって約束どおり全額を支払ってさえいれば、法廷闘争にまで発展することはなかったのだ。

 

 

その女との通話後、私は体調を増悪させ、腹痛による緊急入院や急患への飛び込みを重ね、現在も消化器内科に通院中である。

多大な犠牲を払ったその女への訴訟であったが、前述のとおり裁判所から、その女に支払命令が出され、さらに、その女が「発言した記憶はない」「時効だ」と主張したきり、登庁することなく、日韓弁護士協議会に所属する鈴木利治弁護士に丸投げして、だんまりをきめこみ、逃げ切っていた過去の暴言「なんで、天野なんかと」「よく、天野なんかと」についても、裁判所は、「被告が発言したと認められる」と明確な判断を下した。

 

 

訴訟を提起したことによって、過去の暴言が「その女の発言である」と判示され、その女の通話中の発言が「穏当を欠く内容」と認定されたのである。

 

 

だが、殺人事件において時効が撤廃されたように、言葉の暴力によって、何度にもわたり人の心を殺した罪に時効はない。

 

 

その女への最後のメールに、私は次のとおり記した。

「私から攻撃したことは一切ありません。ただの一度も、私から失礼な態度を取ったり、暴言を吐いて友人を傷つけたこともありません。」と。




つまりその女は、長きに亘って私を欺き、一方的に憎悪を募らせていたのであった。

その女が「記憶にない」「時効だ」と逃げ続けていた暴言がその女の本音であり、「その女の発言である」と認定された以上、当然謝罪があってしかるべきであろう。

 

 

最愛の主人に対する初対面での無礼きわまりない暴言や、「あなたのプロフィールから『立教女学院高等学校卒業』を至急削除してください。母校の名誉のためにも」とのいわれなき強要で結ばれた、私への「脅迫状」送付をも含めて、その女が、日本人である私たち夫婦に謝罪することなど断じてない。

しかるに、私の中で、その女への訴訟は死ぬまで続く。

否、死後もなお続くのである。

 

 

本書が完成するまでには、いつも、たゆみない努力とともに、根気良く笑顔で取り組んでくれた、天使のような主人の、多大な犠牲があった。

 

 

主人は、出版社が校正や修正をしやすいように、頁ごとの一覧表にまとめるという手間のかかる作業を黙々とこなし、表紙や写真など細々とした要望を迅速かつ正確に伝える窓口となってくれた。面倒だ・疲れたといった愚痴やぼやきを主人が漏らしたことは、ただの一度もなかった。

 

 

主人の力によって、かくも早い出版が果たせたことを、喜びとともに奇跡のようにかみしめている。

 

 

残り少ない私の人生、

在日暴言魔を生涯の敵とし、

大好きな主人と

これまで以上に

仲良く暮らしていければ

それでいい。

2012年6月18日 (月)

6月18日(月)「その女在日につき」発行!

天野ベラ第二作「その女在日につき」本日6月18日発行致しました!

 

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2012年6月 8日 (金)

堂々完成!「その女在日につき」

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2012年3月29日 (木)

昨日私が読んだ本

ニーチェの本が届き、数時間で読み終えた。

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平易な訳だったためいたって読み易かったが、くだけた訳文が良かったか悪かったかについては賛否両論であろう。私は硬い文でややきつめの内容が好きなので、ニーチェが決定を下すに至った分析は、少々説明不足で物足りなく、時折手ごたえのなさを感じた。

 

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大ウソ、デタラメ、ペテンによって、キリスト教は成り立っています」「キリスト教会は、人間のよいところ、たとえば正直さ、志の高さ、精神力、公明さといったものの敵です」と書き、バッサリと斬った箇所は、自信がみなぎっていて小気味よい。キリスト教が「この世」と呼んで否定するものの中に「人が愛国者であること」があり、「恥を知ること」「自分に誇りをもつこと」など人間が生まれつき持っている本能までが含まれていることを、驚きとともに知らされた。

現在この本は主人が読んでいるので、感想が待たれる。

今回は、読者の皆様に「はじめに」の章を総てご紹介しよう。

 

 

これから私がお話しすることは、もしかしたら少数の人たちにしか受け入れられないかもしれません。それに正直に言って、皆さんがこの本の内容を完全に理解されることは難しいのではないかと私は思っています。

私はこの本を熱い気持ちを持ち続けながら書き下しました。それを受け止めていただくためには、皆さんには、まず「精神的」なことがらに対して、きびしく、正直であってほしいのです。

 

 

私が皆さんに一番言いたいことは、人間は高貴に生きるべきであるということです。

それでは「高貴に生きる」とはいったいどういうことなのか。

たとえば、現在の政治状況に対して、うんざりしている人は多いのではないでしょうか。

「政治なんてどうでもいいや」と思っている人は結構いるはずです。でも、私に言わせれば、それは非常に正しいことなのです。

そんなものに正面からかかわっていてはいけません。上から見下ろしてバカにしていればいいのです。もっともらしい難しい顔をして、「真理は役に立つのだろうか」とか「真理は災いになるのではないか」などと考えていてはダメなのです。それは本当の問題ではありません。

 

 

考えることをためらってしまうような問題を愛すること。

「そんなことを考えてはいけないよ」と言われるようなことをしっかりと考えること。そっちの方がよっぽど大切です。

一人ぼっちになって迷路の中を進んでいくこと。

新しい音楽を聞き分けることのできる耳を持つこと。

身の回りだけでなく遠くまで見渡すことのできる眼を持つこと。

そして、これまで隠されてきた本当の問題に対して、すなおな気持ちで向かい合うこと。

そういったことが一番大切だと私は思っています。

 

 

このようなすべての力のことを、私は「意志の力」と呼んでいます。皆さんには、この「意志の力」をいつも持っていてほしいのです。

そして「意志の力」を持つ自分をうやまい、愛し、誇りに思ってほしい。

私はこのような人たちのために、本書を書き上げました。そうでない人は、残念ながら私とは関係のない、単なる人類にすぎません。私は単なる人類と人は違うものだと考えています。

力によって、魂の高さによって、人は単なる人類であることを超えなければならないのです。

そのために皆さんは、くだらないものはくだらないと、はっきり軽蔑するべきなのです。

  フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

 

 

ここに、一介の主婦である私が長年持ち続けてきた考えと一致する見解を見た。

それは、「たとえ少数の人たちにしか受け入れられないかも知れない」「理解されることは難しい」と思うような内容であっても、自分が信じていることを、熱い思いを持ち続けて書くということである。

読者に対してニーチェは、「精神的」にきびしく、正直であることを求め、高貴に生きてほしいと願っている。

考えてはいけないと言われるようなことをこそしっかりと考え、一人ぼっちになって迷路の中を進むこと、これまで隠されてきた本当の問題に対して、すなおな気持ちで向かい合うことが大切だと説く。

ニーチェは、このような力を「意志の力」と呼び、「意志の力」を持っているとすれば、そんな自分をうやまい、愛し、誇りに思えと書いて読者を鼓舞する。

さらにそこから結論へと導く件(くだり)に私はひきこまれた。ニーチェは、このような人たちのために本書を書き上げたと述べており、それ以外の人はニーチェとは無関係の単なる人類に過ぎないとして切り捨てている。

意志の力を持つ魂の高い人は単なる人類を超えた存在(ニーチェの説くいわゆる『超人』を指すのだろうか?)でなければならず、意志の力を持つ魂の高い人たるためには、くだらないものはくだらないと、はっきり軽蔑すべきであると伝えて終えている。

 

 

「作品の書き手にだって読者を選ぶ自由はある」

無料で送った処女作を、クリスチャンの同級生から根拠なく一方的に「あんな本」と罵られた時、私はそう考えたのだった。ニーチェがこの本の「はじめに」において、自らの本の読み手をはっきりと選んでおいたことは賢明であったといえよう。

なぜなら、自分よりくだらない人間、軽蔑すべき対象の人間、考えることなどとうの昔に止めてしまったような野蛮な人間、知能レベルの低い年甲斐のない人間から、自分が初めて書いた本について、偉そうに上の立場から聞いてもいないのに批評めかした物言いをされるほど腹の立つことはないからである。

 

 

この本には「ろくでもない人間に限って偉そうにしているものですが」と書かれており、ニーチェが偉そうな人間を軽蔑していたことがわかる。「彼らには誠実さのかけらもありません」の活字から、不実な人間を唾棄すべき対象ととらえていたこともわかる。

時空を超えて伝わってきたニーチェの軽蔑の対象は、私と共通していた。

全編を通じて、極限にまで達した怒りと不快感が、3D映画のように随所から飛び出してくる本であった。

折をみて第一章から細かく見ていきたい。

 

 

2012年3月 6日 (火)

執筆の醍醐味とは?!

きれいごとや、

毒にも薬にもならないつぶやき、

当たり障りのない理屈、

誰にでも書ける陳腐な内容、

どこにでもある意見や書き方なら

読んで損した……と私は思う。

 

 

私が求めるのは、血となり肉となる本。

その点において、

亡くなられた林秀彦氏の右に出る者はいない。

 

 

林氏は、日本人には知性がないと言い切る。

警戒心がまったくなく、相手に殺される予感など、

間違っても持てない人間が日本人だと書いてある。

遺伝子の中に、戦争という要因から生じた染色体は、

微塵もないと。

白人の歴史は、間断なき戦争と恐怖であり、それが

白人の知性を作ったと結論づけて、

日本人同士なら安全な態度と同じ態度を

白人にするのは致命的であると述べている。

 

 

日本人同士の間で、

警戒心や緊張感を持たねばやっていけないような

生活環境や人間関係は、なかったのであろうか。

否、迫り来る危険に気づかなかっただけであろう。

 

 

前回書いたとおり、亡くなった私の父親は、

人間が大好きだった。

拙宅は、いつも多くの人でにぎわっていた。

敷地が少し広かったので、父はそこに3軒の家を建てた。

1軒は家族の住まいだが、他の2軒にはお金のない人や

売れない映画監督とその愛人を、外に表札まで出させて、

匿うように住まわせていたこともあった。

 

 

夜遅くにテレビでよく見る人が家で父と飲んでいたり、

庭に担ぎ屋のおばあさんたちが、野菜や干した果物か

何かを広げては売り付けに来ることもしばしばあった。

かと思えば、父が出張する時は、正装した部下の役人が

車で迎えに来たり、盆暮れともなれば、チョコレート等

美しい菓子や洋酒を持参した品の良い人たちが訪れたりと、

拙宅には、あらゆる階層の人々が出たり入ったりしていた。

 

 

こうした文化の中で、私は、警戒心も緊張感もなく育った。

のお言葉を借りれば、まさしく『知性音痴』である。

疑いを知らず、恐れを知らず、無防備で、愚かさを見せては

私は皆様に脅威を与えない存在ですよと、自ら、好んで

バカヅラを示してきたのだ。

そのため、私は、人生の晩年になって、

おめでたい、大馬鹿者として生きてきたツケを、

心身の苦痛とともに、嫌という程高く支払わされた。

 

 

人生の折り返し地点を過ぎたある時点で私は気づいた。

これまで、他人に尽くしすぎてきたことに。

そして、私は決めた。

そんな私の本質につけこみ、利用したのみならず、

さらなる苦痛をも与えた2名の女たちにだけは、

残りの半生を賭して、ペンの力でリベンジしようと。

 

 

キリスト教徒には良い人もいるかも知れない。

だが、口で注意すれば済むところを、いきなり

高校生だった私の右足を革靴で蹴りつけた司祭や、

元同級生である私の敵が、中学生の時から現在に

至るまでクリスチャンだから。

だから、私は、キリスト教を嫌悪する。

理由はそれでいい。

 

 

考えや行動は、自らの実体験に基づいて決定される。

そうでない限り、先人の論や情報の受け売りであり、

のっぺらぼうで心に響かない文字の羅列に過ぎない。

自らの体験に裏打ちされた書き物にこそ、その人間の

目鼻がつき、顔が出来、表情を伴い、心に迫って来る。

 

 

若いうちは、差し障りのない文章しか書けない事情や

保身、顔色うかがいなど色々とおありかも知れないが、

一定の年齢を越えて、ふんぎりがついたら、その時点で

恐れずに、自分にしか書けない内容を書いてみることだ。

 

 

自分にしか書けない内容を書くこと。 

それは執筆における最大の醍醐味であると私は思う。

2011年12月23日 (金)

精神的身分制度の復活を提唱する

「こんなこと書いてあったっけ……」と

読み終えた本を思い出した。

それは「精神的身分制度」という言葉で、

亡くなられた林秀彦先生のご著書にある。

林先生による「精神的身分制度」とは何かを

以下に抜粋すると、

自他が、暗黙に認め合う身分であり、

それぞれの精神の力が反応しあう無形の身分であり、

自己の謙虚さが己を「賤」と見、

自己の向上心が相手を「貴」と見るような身分制度のことである。

私の言う上下とは、部長と課長の関係のようなものではない。

正しく美しい国語を書き、話せる人が「上」であり、

ろくに国語を知らない自分は「下」なのである。

あるいは、電車のなかで老人に席を譲れる人が「尊」であり、

居眠りのふりをする人が「卑」なのである。

以上抜粋。

私は上記林先生のご提案に、諸手を上げて賛成する。

今の社会における上下関係は、

金銭面だけで決定されているように感じるからだ。

30歳になったか、ならないかの成金が、したり顔で

「わたしお金持ってますが、何か?」

「東京の美味しいトコ食べつくしたと思ってたら、まだあったんだ~」

などと、毎日ほざきまくっては騒いでいる。

そんな女だから、顔がだんだん「卑」しくなってくる。

踊る阿呆(アホウ)の典型だろう。

見る阿呆の女たちがはやしたてている。

昔観た「赤い靴」という映画の女性主人公のように、

踊る阿呆は、いつまでも話題を提供し続け、

踊り続けていなければならないのだ。

飽きられてしまったら終わりだからである。

己を知らない。

先人を知らない。

安っぽい、薄っぺらい精神の持ち主であることが

顔に書いてある。

自分はまだまだと、

老いてなお勉強や学びを続ける者が「尊」で

私は強運なのよ、何だって可能さ

といった態度で、

学ぶことを怠り、

自分を完成品と勘違いしている者が「卑」。

各自がそれぞれのものさしで尊卑を定義づけて

みるのも面白い試みであろう。

そして、こうした傲慢な踊る阿呆の女は、

なぜか、日本語つまり国語に拒否反応を示して

英語に逃げる者が多い。

それはなぜだろうか。

国語が満足に出来ないから、英語に走るのか、

英語が話せればカッコいいと錯覚しているのか、

私の価値基準も上記の林先生のお説に等しい。

日本人ならばまずは国語であろう。

国語の読み書きが正しく出来てこそ「尊」であり、

国語が出来ず学ぶことを避けて留学し、

英語しか出来ない者は「卑」と言うより

「論外」であろう。

今日は、「精神的身分制度」という言葉から、

これからも、国語

すなわち母国語である日本語に

ますます親しみ学んでいきたいとの

自らの決意が、結論として導かれた。

2011年12月18日 (日)

簡単な書評

失われた日本語、失われた日本  (和書)

20111214 20:28

   
 

林 秀彦
 
草思社
  2002
10

 

                                                               

昨年11月に逝去されていた林秀彦氏の作品である。
 
 
帯には『著者渾身の一冊』と記されているが、 

林氏の本はどの作品も渾身の一冊であることを

 

私はよく知っている。
 
 
林氏は、日本を愛し、日本語を愛し、古き佳き時代の理想とする日本の女性を溺愛なさっては、その都度、深い絶望という名の壁にぶち当たられ、満身創痍で、心から大量の血を流された。 
 
 
そして、自らの流された血で作品を書かれた唯一の愛国作家ではなかっただろうか。 


 
この本を手に取られたあなたは、美しい桜のイラストが付いた赤い表紙という外見に、嫌というほどだまされることになるだろう。 
 
 
ページをめくる毎に、断末魔に近づきかけた林氏の、最早叶いようもない、叫びにも似た容赦ない激しい怒りの言葉が、目に飛び込んでくるからだ。 


 
この本は、私たち日本人に「もっとよく見て見ろ!」と乱暴に突き付けられた拡大鏡である。 
 
 
日本語の、日本人の、変わり果て落ちぶれ果てた姿を、その美醜のみならず、例えば、毛穴が、たるみが形成されゆく過程と背景にまで言及しつつ、どこまでも残酷に見せつけてゆく。 
 
 
苦い気持ちとともにこの本を繰り返し読み終えた今の私が、多少なりともバカ面でなくなっているとすれば、林氏が本の中から発する罵声に耐え抜いた甲斐もあろう。 
 
 
同氏の愛情に満ちた罵声が、肉声では二度と聞かれなくなったという厳然たる事実を深く受けとめつつ、未読の本を入手するとともに、繰り返し読んでいこうと誓っている。

 

 

 

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