書籍・雑誌

2016年3月17日 (木)

自己愛以外の愛情を知っていますか?

応訴作業・応訴活動に余念のない日々が続いている。 

 

そんな明け暮れの中、私が繰り返し読んでいるのは

 

 

「良心をもたない人たち」という著書である。

 

 

商品の説明

 

内容(「BOOK」データベースより)

 

平然と嘘をつき、涙で同情を誘い、都合が悪くなると逆ギレをする―本来、人間に備わるはずの良心をもたないがゆえに、他者への思いやりが絶対的に欠落し、手段を選ばずに自分の欲望を満たそうとする人たちがいる。25人に1人いるとされる“良心をもたないサイコパス”の実態を心理セラピストが明かす。

 

彼らの被害者にならないための見分け方と対処法を教える一冊。 http://www.amazon.co.jp/%E8%89%AF%E5%BF%83%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-%E8%8D%89%E6%80%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B5-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%88/dp/4794219296

 

  

良心とは何か?

 

 

追いつめられたサイコパスが取る行動とは?

 

 


折に触れ、内容をご紹介していきたいと思う。

 

 

***

 

 

良心はおこなったり、考えたりするものではない。私たちが感じるものだ。

 

 

言葉を変えると、良心は行動でも認識でもない。良心は本来、〝情動〟すなわち一般に感情と呼ばれているものの中に、存在している。(41頁

 

 

心理学的に言うと、良心はべつの生き物(かならずしも人間とはかぎらない)ないし人間の集団、あるいは人類全体への感情的な愛着から生まれる義務感である。

 

 

良心はだれか(あるいはなにか)との感情的な愛着なしには存在しない。

 

 

つまり良心は、いわゆる〝愛〟と呼ばれる一連の感情と密接にかかわっているのだ。

 

 

この結びつきが、良心にエネルギーをあたえる。

 

 

人が駆りたてられるのは、その燃料が強い愛情であるからにほかならない。

 

 

そして良心の行為を見聞きするとき-たとえそれが犬に餌をやるなどの平凡なことであっても-私たちがうれしくなるのは、良心にもとづく選択が、その奥にあるやさしいきずなを思い起こさせるからだ。(42乃至43頁

 

 

得意わざは空涙(127乃至129頁) 

 

人はサイコパスの演技力にも惑わされる。 

 

良心なしに人生を組み立てるには、欺瞞や幻想が必要になる。 

 

そこで知的サイコパスは演技が巧みになり、プロの役者なみのテクニックまで駆使する。

 

 

そして皮肉にも、自在な感情表現がサイコパスの第二の天性になる。

 



相手の悩みや情熱にたいする興味津々な態度、胸を叩いて訴える愛国心、正義感あふれる憤り、謙虚に赤らめる顔、悲しげなすすり泣き。

 



思いどおりに流す空涙は、サイコパスの得意わざだ。

 

 

サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う

 

だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。

 

 

あるいは逆の出方をする。 

 

追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする

 

 

生まれついての役者である彼らは、社会的・職業的役割をフルに利用する。 

 

それがすばらしい仮面になってくれるからだ。 

 

人は異常な行動を目にしても、それをしたのがたんなるドリーン・リトルフィールドではなく、ドリーン・リトルフィールド博士であれば、疑いをもつことはめったにない。

 

博士という肩書は、明確なプラスの意味をもっており、人は博士と呼ばれる人物についてあまり詮索をしない。

 

 

おなじことが会社組織、宗教組織、教育組織の中で役割と肩書をもつ人物、あるいは国家の指導者や親にも言える。

 

 

役割の持つ意味で個人を判断してしまうからだ。



そしてまた、相手にやさしさや、創造力や、鋭い洞察力を感じたとき、人は相手の実際の行動から目をそらす傾向がある。

 

 

たとえば、私たちは動物が好きだと言う相手を、いい人と思いがちだ。




そして芸術家や教養人を感じさせる相手には、点が甘くなる。



ひとつには、そういう人たちに異常者はいないと思っているからだ。



そのような見方は、一般的には前向きなのだが、ときには真似のうまいサイコパスに扉を開くことになる。

 

***

2016年2月 6日 (土)

知ることが、破壊力を弱める、一助となる -できないものはなにもない人たち-

 

ぜひ知っておいてほしい。

 

だから今夜もご紹介する。

 

***** 

「良心をもたない人たち」16頁より

 
精神病質者(サイコパス)全体に共通するもの

 

そのなかで最もよく目につく特徴の一つが、
口の達者さと表面的な魅力である。


共通して
病的に嘘をつき、人をだます。あるいは〝友人〟に寄生虫のように寄りかかる。いかに高度な教育を受け、社会的地位が高くても、幼年期に問題行動を起こした可能性もある。ドラッグをやったり、少年犯罪でつかまったりしたかもしれない。そしてつねに、いかなる問題にたいしても責任を感じない点は共通している。


感情の浅さも、サイコパスの目立った特徴である。口では愛していると言いながら、その愛情は底が浅く、長続きせず、
ぞっとするほどの冷たさを感じさせる。

 


サイコパスにとって結婚相手が価値があるとすれば、それは所有物としての価値で、彼らは失うことに腹を立てるが、悲しんだり責任を感じたりすることはいっさいない。


セラピストとして私(引用者注:著者)は、心的外傷(トラウマ)を負った人たちの治療にあたってきた。

なかには地震や戦争など、天災や人災がトラウマとなった患者もいたが、大半は悪意の個人によって支配され、精神的に蹂躙された人たちだった。



悪意の個人はサイコパスであることが多く、しかもたいていは他人ではなくサイコパス的な親、年上の親族、あるいはきょうだいだった。


患者とその家族が受けた傷から立ち直れるよう、彼らに手を貸し、病歴や環境歴を調べるうちに、身近にいるサイコパスによってあたえられる傷はいずれも深くて治りが遅く、命取りになる場合も多く、驚くほど共通点があることがわかった。



およそ二五人に一人の割合でサイコパス、つまり良心をもたない人たちがいる。彼らは善悪の区別がつかないわけではなく、区別はついても、行動が制限されないのだ。



頭で善と悪のちがいはわかっても、ふつうの人びとのように感情が警鐘を鳴らし、赤信号をつけ、神を恐れることがない。罪悪感や良心の呵責がまったくないため、
できないことはなにもない人たちが、二五人に一人いる。

 (20頁より)

2016年2月 3日 (水)

応訴の合い間にベラが読む本-「良心をもたない人たち」-

パソコンの横に置いては飽きずに眺めている本がある。

 


「良心をもたない人たち」

 


2006年に出版された単行本の文庫版である。

 


この本で筆者は「良心」とは

 


『愛にもとづく義務感』であり、

 


『愛にもとづく義務感』に欠けているのがサイコパスであると述べている。

 


わかりやすい定義ではないか?

 


この本の帯と裏表紙には、

 


「一見、魅力的だが、うそをついて人をあやつり、

空涙をながして同情をひき、

追いつめられると逆ギレする」のが

 


「良心をもたない人間」

 


つまり「サイコパス」と明記されている。

 


これについては本文の128頁に「サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追及できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする。追いつめられたサイコパスは、逆恨みをして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする」と述べられており、

 


さらに「生まれついての役者である彼らは、社会的・職業的役割をフルに利用する。それがすばらしい仮面になってくれるからだ。役割は複雑な社会に秩序をあたえるものであり、私たちにとってはきわめて重要なものだ。人は異常な行動を目にしても、それをしたのがたんなるドリーン・リトルフィールドではなく、ドリーン・リトルフィールド博士であれば、疑いをもつことはめったにない。博士という肩書は、明確なプラスの意味をもっており、人は博士と呼ばれる人物についてあまり詮索をしない」と述べられている。

 


他にもご紹介したい文章がいくつかあるので応訴の合い間にまたあらためて抜粋できればと思うが、まずここでは不信感を抱いた人物を追及した時に、涙を浮かべながら同情をひくような内容を聞かされたら、その人物が「生まれついての役者」かどうかを疑うこと、追いつめられた「良心をもたない人たち」は逆恨みをして怒りだし、逆に追及している者を、脅して遠ざけようとすること、さらには「肩書」に惑わされて妄信することなく、時には疑いをもち、その本質を見極めることが大切であると教えてくれているのではないだろうか。

 


私はそう思っている。

2015年2月11日 (水)

筋の通った生き方を貫こう。-「正義」という言葉に照れることなかれ-

「正義の作法」の著者であり、元検察官・弁護士・法学者の河上和雄氏が、

今月7日に肺血症で亡くなられたことを知った。

 


手許にあるこの本から20頁に書かれている言葉を紹介する。


弁護士のモラルは、いまや完全に地に落ちている

 


法律家としての『筋』を曲げてカネに走る弁護士の姿は、そのまま現在の日本社会のあり方に重なるものだ」(21頁)

 

 


いまは日本全体が、貧相な卑しい顔になっているように見える。それは、日本人一人ひとりが自分なりの『正義』を見失っているからではないだろうか」(21頁)

 

 


ウソをついておきながら、それを悪いと思っていない人間ほど、許しがたいものはない

(158頁)

 


世の中から正義を奪うのは、不正行為そのものではない。発覚した不正を認めようとせず、他人に責任を押しつけようとする卑劣な態度が、正義を腐らせる」(173頁)

 

 


この本には「正義」「ウソ」「」という言葉が頻出する。

 


誇り」「モラル」「カネ」という言葉が後を追いかける。

 


正義」という言葉は苦手とおっしゃる向きは多いだろう。

 


だが、この本においては、「自分が正しいと思ったことを貫く」のが「正義」である。

 


「筋を通す生き方」それが「正義」だとすれば、たとえ、周囲から煙たがられようと、
多少世間との間に摩擦が生じようと、怯まずに筋を通すことこそが「正義」である。

 


だが、「正義」を貫くことで不利益を受けている人々の、何と多いことか。

 


故人となられた河上和雄氏は、「現代社会で失われつつあるのが『正義』と『誇り』である」と憂い、


「『頑固者』と言われてもいい、周囲が間違っているときは断固反対を唱え、『筋』を通す必要がある」と強く説いた。

 


「正義」という言葉がどこか面映ゆい、どうもおこがましい、苦手と感じるのであれば、「筋を通すこと」と置き換えてみるのはどうだろう。

 


私の生き方は筋が通っているだろうかと居づまいを正して振り返る時、努力も苦労も大損もして、身体も壊したけれど、こうするしかなかった、これで良かったのだと誇りに思えれば、それで良し。

 


阿諛追従に右顧左眄、私の嫌いな四文字熟語の中から飛び出して来たかのような者どもの面構えを見てみれば、何とも軽く、年ばかり取ってはいても、内容のない、実に薄っぺらい顔をしている。

 


堂々と対峙して自ら意思表示することの出来ない人間は、噛みおわってカスカスになったガムの様に貧相な脳味噌の持ち主でありながら、その自覚がない。

 


貧相な心と身体と脳味噌の持ち主は、常に他人の力に頼り、他者の知恵を借りるばかりで、物事を深く考察せず、幅広く学ばずに、持論や持説を鍛えようとも磨こうともしないから、いつまでたっても考えが脆弱で論を成さず、他者との話し合いを避け続けることしか出来ないのだろう。

 


そして、私の知る限り、人様の力や知恵を借りて利用する者ほど「カネ」が好きなものである。

 


ウソをつきながら、曲がったことをして、上手にカネをつかんでいくのか。

 


筋を通す生き方を貫き、誇りをもって、堂々と胸を張って進んでいくのか。

 


表紙のお写真を見れば、回答は自ずと明らかであろう。

 

Photo


名著への感謝とともに、謹んで河上和雄氏のご冥福をお祈りいたします。

2014年6月17日 (火)

絶望の裁判所

久々に買いたいと思う本であった。

早速取り寄せてやっと読み終えた。

 


それが、33年間裁判官を務め、現在は明治大学法科大学院の専任教授に転身し学者となった瀬木比呂志氏著『絶望の裁判所』である。

 


瀬木氏が裁判官をやめた理由のひとつはこうだ。

 


裁判所にも、裁判官のマジョリティーにも、ほとほと愛想が尽きたということもある。はっきりいって、顔も見たくないというタイプが少しずつ増えてきていた。」(頁41

 


2014年1月1日の「あとがき」に書かれている。

 


「『床を見てごらん、汚れている。掃かなきゃならない』日本の司法というあなたの前のステージは、ピラミッド型ヒエラルキーのキャリアシステムと、その奴隷であり、それに毒された裁判官たちとによって、すっかり汚されてしまっている。」
(頁235

 


私たち夫婦、すなわち天野コグちゃんとベラが==>削除==>砂を噛むような実感とともに懸念していたとおり、



談合裁判、判決内容の事前リーク、東京地裁
内の出来レース選挙」(頁22)「こうした不正は、裁判の基本的な公正を害する行為なのだが、おそらく、日本の司法においては、さまざまな場所にさまざまな形で存在するのではないかと思われる」(頁23)「表に出さえしなければ大抵のことは許されるという感覚」(頁24)が蔓延している。

 



裁判官としての33年間に瀬木氏が観察・研究した他の裁判官らについて、




かなりの数の裁判官に、これから論じていくような、いびつな、ゆがんだ精神構造という問題があることは、私の経験からしても、否定できないと思う

(頁174)との「裁判官の精神構造の病理」の項より下記に抜粋したので、ご一読いただきたい。

 


「裁判官の精神構造の病理」



(1)一枚岩の世界、内面性の欠如、内面のもろさ



(2)エゴイズム、自己中心性、他者の不在、共感と想像力の欠如

自分だけがかわいく、自分にはいいことがあって当然、そして、いいことが自分を差し置いてほかの人にあることは許せない、というタイプが非常に多い。したがって、特別な好意でしてあげたことについても、全く感謝せず、当然と思っていることが多い。



(3)慢心、虚栄

裁判官の慢心にも、度し難いものがある。内心では自分よりえらいものはないと思っている場合が非常に多く、(中略)実際には一つとして特別なところなどないにもかかわらず、自分こそは特別だと思っている例が多いことである。



(4)嫉妬

裁判官の嫉妬深さも尋常ではない。私も、本を出すようになってから、嫉妬に基づくとしか考えにくい中傷をたびたび受けた。



(5)人格的な未熟さ、幼児性

以上のような精神構造の病理の根にあるのは、結局、人格的な未熟さであろう。私は、子どものような部分をもっている人間が好きだが、それは、老成した人格の中に子どものような純粋さや無邪気さ、好奇心、素直な共感の力などが残っている場合のことである。裁判官の場合は、そうではない。ただ単に人格的に幼いのであり、聞き分けのないむら気でエゴイスティックな幼児性なのである。感情のコントロールができず、すぐに顔色を変えることが、その一つの現れである。また、裁判官によくある、異常にぶしつけな行動も、こうした幼児性の現れである。こうした人物の特徴は、キャリアシステムにおける自分の地位に異常ともいえる執着をもっており、価値観が一面的で視野が非常に狭く、自分とは異質のものを理解する能力に全く欠けているといったことである。



(6)建前論、表の顔と裏の顔の使い分け

何かにつけ建前でものをいい、考える人が多い。そういうことを続けているうちに、自分の中の生きた感情を見詰める眼を失ってしまい、柔らかさ、人間としてのニュアンスや色合い、寛容さやおおらかさ、広い意味での人間的なエロスといった微妙な美点についても、同様に失っていくことになる。



(7)自己規制、抑圧

排除、懲罰、報復がきわめて過酷な社会であることについて述べたが、このことを裁判官のほうからみれば、「裁判所当局や周囲との関係からしないほうがよいのではないかと思われること」のラインが、心の中に克明に引かれていることになる。彼らはこうした精神的自己規制の下、周囲の目や思惑ばかり気にしながら、自分を抑圧して生きている。

また、裁判官の中には、若いころにはおとなしかったのに、所長になると豹変して典型的な権力者タイプになる人がままみられるが、これも、それまでの間の自己規制と抑圧の反動であろう。裁判官の不祥事やハラスメントについても、同様に、反動としての側面は大きいと思われる。



(8)知的怠慢

今日の裁判官に、深い教養の持主はめったにいない。視野の広い人も少ない。そもそも、専門外の本を読んだことなどほとんどないという人も多く、裁判官なら本来ある程度は備えていてもよいはずの、心理学、精神分析、カウンセリング等の事柄に関する知識すら、一応でも備えている人はまれである。一般的な学識や教養には乏しく、したがってものの考え方にパースペクティヴやヴィジョンを欠いており、しかも、法律さえわかっていればえらいと思っている。そうした意味での知的怠慢は、かなりの程度に蔓延しているといってよい。



(9)家庭の価値意識

裁判官の家庭では、親の硬直した価値意識が家庭に直接侵入してくる傾向が強い。そうすると、家族のメンバー、ことに子どもたちにとっては安息の場所がなくなり、それがまた、親にも反映していくことになる。その結果、裁判官の子どもには、一般に知的能力は高いにもかかわらず、さまざまな問題が生じることが多いように感じられる。登校拒否、引きこもり、自殺等、私が知っている範囲だけでもかなりの数を数えることができ、問題の根は深いという気がする。



(10)まとめ

以上のような裁判官の精神構造の病理については、修習生、すなわち一種の学生がすぐに裁判官になる、それも、きわめて問題の多い日本型キャリアシステムの裁判官になることによって、本来であれば社会生活の中で矯正されていくはずの個人的な欠点が、矯正されるどころか逆に増幅されていくことによる問題という側面が大きいのではないかと考える。

本来、裁判官などという職業は、さまざまな人生経験を経て、酸いも甘いも相当程度に噛み分けられるようになってから就くことが望ましい。それだけの包容力や耐性をもっていないと、人の運命を左右するこの職業は、それも医師とは違って、国家権力、審判者という立場からそれに関わるこの職業は、精神的な負担が大き過ぎ、荷が重すぎるのである。


たとえば、法科大学院の模擬裁判の授業における裁判官役の学生の中にすら、急にテンションが上がって切り口上になる人が何人も出てくるのをみるだけでも、そのことはよくわかる。それに加えて、前記のようなシステムが大きな精神的圧迫を加えてくるわけであるから、元々が坊ちゃん、嬢ちゃんの優等生であった若手判事補たちは、ゆがんでいったり、その欠点が異常に増幅されていったりすることになる。ことに、近年の若手は、育ちがよくてものを知らないから、どんな色にでも簡単に染まる。実際、よいところ、みるべきところのあった若手判事補たちでさえ、その少なからぬ部分が、十数年も経過するころにはかなりの奇人変人になっているのをみるときほど、裁判官をやっていてがっかりさせられることはない。



以 上

2013年5月23日 (木)

拙著より

2005年10月15日、「ルサンチマンは女の宿痾」を自費出版した。

この本を宣伝したところで、印税が私に入ることはないし、利益がもたらされることもない。



その点を明確にしたうえで、一部を抜粋する。

 

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「ルサンチマンは女の宿痾」 天野ベラ


-どこまでも付け上Girl,群れたGirlどもへ-


246頁女たちと付き合うためのヒント」より


247頁
最高の弁護士は自分


 
 

 女として生まれた以上、集団でのいわれなき中傷や誹謗に耐えなくてはならない時がきっとある。


そんな時、あなたを助けるのは、取り敢えずあなた自身だ。 


私は常に、「大丈夫!私にはこんなに強い私がついているじゃない」と言い聞かせながら数々の困難を乗り越えてきた。


自分は自分の最高の弁護士」と信じて、一歩一歩着実に歩んでいこう。


この訓練は、生涯の支えとなる。



249頁自分でできることは自分でする


 私も体験したが、裁判だって弁護士に頼らず本人訴訟で起こすことができる。


何でも人任せにして終わらせることなく、先ずは自分の目で確かめてみよう。


たとえ失敗しても、投げ出さずに遣り遂げれば掴めるものがある筈だ。



他人を頼るのではなく、自分を頼って、倒れる一歩手前まで全力を尽くしてみよう。



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2012年6月30日 (土)

2012年6月18日発行「その女在日につき」-あとがきに代えて-

私たち夫婦は、その女に対して、契約不履行等損害賠償請求訴訟を提起し、勝訴した。


その女は、裁判所から、「四万二千三百円及びこれに対する平成二十二年四月七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。」と命じられて、電話で約束した金額を、請求どおり私の銀行口座に振り込まねばならなくなり、一年五か月を経て支払った。

 

 

口では「支払います」と何度も豪語しておきながら、本当はお金を出したくないばっかりに、その女は筋違いの悪あがきや無駄な抵抗をしてきたのだが、自己の発言に責任をもって約束どおり全額を支払ってさえいれば、法廷闘争にまで発展することはなかったのだ。

 

 

その女との通話後、私は体調を増悪させ、腹痛による緊急入院や急患への飛び込みを重ね、現在も消化器内科に通院中である。

多大な犠牲を払ったその女への訴訟であったが、前述のとおり裁判所から、その女に支払命令が出され、さらに、その女が「発言した記憶はない」「時効だ」と主張したきり、登庁することなく、日韓弁護士協議会に所属する鈴木利治弁護士に丸投げして、だんまりをきめこみ、逃げ切っていた過去の暴言「なんで、天野なんかと」「よく、天野なんかと」についても、裁判所は、「被告が発言したと認められる」と明確な判断を下した。

 

 

訴訟を提起したことによって、過去の暴言が「その女の発言である」と判示され、その女の通話中の発言が「穏当を欠く内容」と認定されたのである。

 

 

だが、殺人事件において時効が撤廃されたように、言葉の暴力によって、何度にもわたり人の心を殺した罪に時効はない。

 

 

その女への最後のメールに、私は次のとおり記した。

「私から攻撃したことは一切ありません。ただの一度も、私から失礼な態度を取ったり、暴言を吐いて友人を傷つけたこともありません。」と。




つまりその女は、長きに亘って私を欺き、一方的に憎悪を募らせていたのであった。

その女が「記憶にない」「時効だ」と逃げ続けていた暴言がその女の本音であり、「その女の発言である」と認定された以上、当然謝罪があってしかるべきであろう。

 

 

最愛の主人に対する初対面での無礼きわまりない暴言や、「あなたのプロフィールから『立教女学院高等学校卒業』を至急削除してください。母校の名誉のためにも」とのいわれなき強要で結ばれた、私への「脅迫状」送付をも含めて、その女が、日本人である私たち夫婦に謝罪することなど断じてない。

しかるに、私の中で、その女への訴訟は死ぬまで続く。

否、死後もなお続くのである。

 

 

本書が完成するまでには、いつも、たゆみない努力とともに、根気良く笑顔で取り組んでくれた、天使のような主人の、多大な犠牲があった。

 

 

主人は、出版社が校正や修正をしやすいように、頁ごとの一覧表にまとめるという手間のかかる作業を黙々とこなし、表紙や写真など細々とした要望を迅速かつ正確に伝える窓口となってくれた。面倒だ・疲れたといった愚痴やぼやきを主人が漏らしたことは、ただの一度もなかった。

 

 

主人の力によって、かくも早い出版が果たせたことを、喜びとともに奇跡のようにかみしめている。

 

 

残り少ない私の人生、

在日暴言魔を生涯の敵とし、

大好きな主人と

これまで以上に

仲良く暮らしていければ

それでいい。

2012年6月18日 (月)

6月18日(月)「その女在日につき」発行!

天野ベラ第二作「その女在日につき」本日6月18日発行致しました!

 

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2012年6月 8日 (金)

堂々完成!「その女在日につき」

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2012年3月29日 (木)

昨日私が読んだ本

ニーチェの本が届き、数時間で読み終えた。

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平易な訳だったためいたって読み易かったが、くだけた訳文が良かったか悪かったかについては賛否両論であろう。私は硬い文でややきつめの内容が好きなので、ニーチェが決定を下すに至った分析は、少々説明不足で物足りなく、時折手ごたえのなさを感じた。

 

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大ウソ、デタラメ、ペテンによって、キリスト教は成り立っています」「キリスト教会は、人間のよいところ、たとえば正直さ、志の高さ、精神力、公明さといったものの敵です」と書き、バッサリと斬った箇所は、自信がみなぎっていて小気味よい。キリスト教が「この世」と呼んで否定するものの中に「人が愛国者であること」があり、「恥を知ること」「自分に誇りをもつこと」など人間が生まれつき持っている本能までが含まれていることを、驚きとともに知らされた。

現在この本は主人が読んでいるので、感想が待たれる。

今回は、読者の皆様に「はじめに」の章を総てご紹介しよう。

 

 

これから私がお話しすることは、もしかしたら少数の人たちにしか受け入れられないかもしれません。それに正直に言って、皆さんがこの本の内容を完全に理解されることは難しいのではないかと私は思っています。

私はこの本を熱い気持ちを持ち続けながら書き下しました。それを受け止めていただくためには、皆さんには、まず「精神的」なことがらに対して、きびしく、正直であってほしいのです。

 

 

私が皆さんに一番言いたいことは、人間は高貴に生きるべきであるということです。

それでは「高貴に生きる」とはいったいどういうことなのか。

たとえば、現在の政治状況に対して、うんざりしている人は多いのではないでしょうか。

「政治なんてどうでもいいや」と思っている人は結構いるはずです。でも、私に言わせれば、それは非常に正しいことなのです。

そんなものに正面からかかわっていてはいけません。上から見下ろしてバカにしていればいいのです。もっともらしい難しい顔をして、「真理は役に立つのだろうか」とか「真理は災いになるのではないか」などと考えていてはダメなのです。それは本当の問題ではありません。

 

 

考えることをためらってしまうような問題を愛すること。

「そんなことを考えてはいけないよ」と言われるようなことをしっかりと考えること。そっちの方がよっぽど大切です。

一人ぼっちになって迷路の中を進んでいくこと。

新しい音楽を聞き分けることのできる耳を持つこと。

身の回りだけでなく遠くまで見渡すことのできる眼を持つこと。

そして、これまで隠されてきた本当の問題に対して、すなおな気持ちで向かい合うこと。

そういったことが一番大切だと私は思っています。

 

 

このようなすべての力のことを、私は「意志の力」と呼んでいます。皆さんには、この「意志の力」をいつも持っていてほしいのです。

そして「意志の力」を持つ自分をうやまい、愛し、誇りに思ってほしい。

私はこのような人たちのために、本書を書き上げました。そうでない人は、残念ながら私とは関係のない、単なる人類にすぎません。私は単なる人類と人は違うものだと考えています。

力によって、魂の高さによって、人は単なる人類であることを超えなければならないのです。

そのために皆さんは、くだらないものはくだらないと、はっきり軽蔑するべきなのです。

  フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

 

 

ここに、一介の主婦である私が長年持ち続けてきた考えと一致する見解を見た。

それは、「たとえ少数の人たちにしか受け入れられないかも知れない」「理解されることは難しい」と思うような内容であっても、自分が信じていることを、熱い思いを持ち続けて書くということである。

読者に対してニーチェは、「精神的」にきびしく、正直であることを求め、高貴に生きてほしいと願っている。

考えてはいけないと言われるようなことをこそしっかりと考え、一人ぼっちになって迷路の中を進むこと、これまで隠されてきた本当の問題に対して、すなおな気持ちで向かい合うことが大切だと説く。

ニーチェは、このような力を「意志の力」と呼び、「意志の力」を持っているとすれば、そんな自分をうやまい、愛し、誇りに思えと書いて読者を鼓舞する。

さらにそこから結論へと導く件(くだり)に私はひきこまれた。ニーチェは、このような人たちのために本書を書き上げたと述べており、それ以外の人はニーチェとは無関係の単なる人類に過ぎないとして切り捨てている。

意志の力を持つ魂の高い人は単なる人類を超えた存在(ニーチェの説くいわゆる『超人』を指すのだろうか?)でなければならず、意志の力を持つ魂の高い人たるためには、くだらないものはくだらないと、はっきり軽蔑すべきであると伝えて終えている。

 

 

「作品の書き手にだって読者を選ぶ自由はある」

無料で送った処女作を、クリスチャンの同級生から根拠なく一方的に「あんな本」と罵られた時、私はそう考えたのだった。ニーチェがこの本の「はじめに」において、自らの本の読み手をはっきりと選んでおいたことは賢明であったといえよう。

なぜなら、自分よりくだらない人間、軽蔑すべき対象の人間、考えることなどとうの昔に止めてしまったような野蛮な人間、知能レベルの低い年甲斐のない人間から、自分が初めて書いた本について、偉そうに上の立場から聞いてもいないのに批評めかした物言いをされるほど腹の立つことはないからである。

 

 

この本には「ろくでもない人間に限って偉そうにしているものですが」と書かれており、ニーチェが偉そうな人間を軽蔑していたことがわかる。「彼らには誠実さのかけらもありません」の活字から、不実な人間を唾棄すべき対象ととらえていたこともわかる。

時空を超えて伝わってきたニーチェの軽蔑の対象は、私と共通していた。

全編を通じて、極限にまで達した怒りと不快感が、3D映画のように随所から飛び出してくる本であった。

折をみて第一章から細かく見ていきたい。

 

 

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