映画・テレビ

2017年1月17日 (火)

どうしようもない人が母親だった時、子どもはどうすればいいか-「愛を乞うひと」を視て-

テレビドラマ「愛を乞うひと」を視た。

http://www.ytv.co.jp/aikou/


どうしようもない母親を、どうしようもなく愛していました」との宣伝文が、実話をドラマ化したこの作品を簡潔ながら言い得ている。


虐待は私の想像をはるかに超えた世界であり、残念ながら同情することも共感することもできない。


愛情がない筈はないのだから内心は虐待母も辛かっただろうなどと思いながらも、到底理解するには及ばなかった。


だが親と子については考えるところがあった。


子どもが見ているのは親の背中のみではない。


子どもたちは親の総てをじっと見つめている。


親の表情やしぐさから、考え方や言動に至るまで、その総てを子どもたちはつぶさに観察しながら日々成長していく。


親がどうしようもない人間で、常人には太刀打ち出来ないような桁外れの悪性があった場合、それを子どもが反面教師として覚めた目で冷静に捉えず、取り込まないよう努力もせず、抵抗せず無批判にやり過ごしてきたとすれば、その子どもは親の悪性を受け入れたも同然である。


その結果、許し難い親の欠点をそっくりそのままその子どもが受け継ぐ事態になりかねない。


このドラマ(実話)の場合、母親の悪性が「虐待」というわかりやすい形で顕著に露見していたため、子どもは「虐待は恐い」「虐待によって死ぬことがある」「虐待は何よりも残酷である」「虐待はきわめて悪質な行為だ」と自らの実体験によって明確に認識することが可能であった。


もしかすると虐待された子どもたちの中には「虐待は悪」と認識していながら母親と同じように我が子を虐待する道を辿ってしまう者もいるだろう。



だがドラマの子どもは強く賢かった。


初めてのお給料を片手に、勇気をもって、虐待母から逃げ出したのだ。

 もっとも逃げ出した原因は、その子のお給料を「出しな。給料日だろう、出しな」「仕事に行くんだからさぁ、とっとと出せって言ってんだよ!」と声を荒げながら、虐待母が夜の仕事に出かける前に、その子の給与袋ごとむしり取り、中から硬貨だけをお小遣いと称して畳の上に叩き付けたことにあり、取り戻そうとしたその子に暴力を振るって、大きなたらいの水を頭からかけたことにあった。

 

死に物狂いでお給料を取り戻しそのまま逃げようとするその子に、異父きょうだいにあたる弟が必死で手を貸したお蔭で、何とかその子は逃亡に成功した。


逃げ出したその子は苦労が報われて、心優しい男性と結婚し、やがて授かったひとり娘と打って変ったように心穏やかな日々を過ごすようになる。


努力と忍耐力の甲斐あって、波風の立たない平穏な日々を獲得したのだ。


虐待母の下から逃げ出したその子は、虐待母の子どもでしかなかった人生から、配偶者にとっての妻として、ひとり娘にとっての母親として、女性としての新たな人生を自力で切り開いた。


猛々しく荒々しい母親と同じ血が流れている事実を実体験によっていやでも知り得ていたその子は、母親の持つおぞましい人間性を振り払って微塵も譲り受けていないしとやかな女性に成長した。


人生に疲れた風情こそ残ってはいるものの悟りを得たように静かで和やかな女性となった姿に安堵するとともに、「このまま何ごともありませんように……」と祈りたい気持ちでいっぱいになる。


何気ないながらも配慮に満ちた母と娘の会話、だらりとした姿でゆらゆらと並んで歩いている母と娘の姿は、「ああ、平和とはまことにこうしたものだ……」と感じ入る瞬間だ。


かつてその小さな両の手に、包丁をしっかりと握り締め、まだ発達していない小さいその顎に、刃先を突き立てて自死をも決意させるほどまでに追い込まれ、殺気立つ修羅場と化した家の中で何度となく死の危険に直面させられてはその都度それらを乗り越えてきた後に、亡父の祖国であり、お世話になった亡父の親友の故郷でもある台湾の茶畑を、ごく普通の服装をした、気負いもなく、衒いもなく、ゆったりとした自然体で、母娘が訪れる場面を視ていると、そこで再会した木村多江さん独特の何とも言えない憂いある情感と相俟って、涼風が漂ってくるような光景へと変わっていった流れは、視ている者にとっても大きな救いであった。


後味の悪い思いもなく、総てを払拭することができたからだ。


主演の篠原涼子さんは胸元を強調したセクシーな若い母親役から老女役そして二役の女性(成長した娘)役までを見事に演じきった。特に最後に見せてくれた白髪交じりのロングヘアーを束ねて生活に疲れ果ててやさぐれた老け役は実にあっぱれであった。


親と子に限らず、教育を論じる時に思い浮かぶのは、「人に授けるに魚を以ってするは、漁を以ってするに如かず」(
「授人以魚 不如授人以魚」)という老子の言葉である。


これは「誰かに魚をあげれば、その人はその日一日は食べ物に困らないだろう。

だが、魚釣りのやり方や、魚の捕り方を教えてあげれば、その人は食べるのに困らなくなるだろう」といった内容だと思う。


欲しい物を親から与えられて、もらってばかりだった甘えっ子は、いつまでたっても親の力をあてにして成長するであろう。



教えて学ばせるより何でもしてあげることの方がずっと簡単であり、欲しがるものは何でも与えてあげる方がよっぽど楽で手間もかからない。親が無条件で子を助け、親の力を貸し続ける限り子どもと言い争うことはなく、揉め事もなくて済む。



だがそこで敢えて親が手を貸さず子どもを突き離して物事のやり方を教えるにとどめ、後は子どもの努力によって子ども自身にやり方を学び取らせ、正しいやり方を習得するのに必要な忍耐力を養わせ身に着けさせることに教育の意味があると私は解釈している。


私の亡き母の話をしよう。


亡母は『京都のホテル王』と呼ばれた故西彦太郎氏の秘書を務めていた。


勤務先は一流ホテルであったから、ちょっとコーヒーや紅茶などをいただくだけでも母が用意するのではなく、それどころか選ばれた礼儀正しいボーイさんが恭しくやって来て、母の分まで銀の食器やスプーンとともに供してくれるなど環境も待遇も良かったそうだ。



西彦太郎氏が亡くなられた後は京阪神から応募者が詰めかけて殺到したというロート製薬の社長秘書に私の母が選ばれて面接を受けた結果ひとりだけ見事採用されたとの報せを受けたそうだ。親族らなど周囲が喜んでいたところ、何とかして母と結婚したいと願っていた私の父が強く反対し、その後結婚することになったそうだ。


父との結婚を決意した母は、周囲の誰からも惜しまれながらきっぱりと仕事を卒業した。



そして潔く家庭に入り、それ以来、悩んでいる人たちへの奉仕は惜しまなかったが、西彦太郎氏の秘書を退いてからは一度たりともお金をもらう仕事をしたことはなかった。



母はいつも家の中にいた。



何ごとにおいても人一倍優れた母は、目立つことや派手なことを嫌い、自分で編んだセーターや白いブラウスにカーディガンなど質素な服装で、私たちのために、いつも家の中にいてくれた。



英語が堪能だった母が米国人パイロットのジェニー氏と流暢に話す姿は私の目にも馴染み深いものだった。当時は身近に英語を話せる女性などいなかった時代だったから幼な心にも鼻の高い思いがした。



だが何よりも私の母は書道の大家であった。


ホテル王と呼ばれた西氏の依頼を受けて、三笠宮親王や、ライプツィヒ大学四羽烏として西氏と親しくされていた武者小路実篤氏や鳩山一郎氏、他1名は誰だったか忘れてしまったが、そうした著名な方々に巻紙に毛筆で頻繁に書状を書かされたそうだ。


そんな亡き母だが私に書を教えたことはなかった。


小学校低学年になった私は、昔住んでいた家の近所に現在もある町民館、今で言うところの地元のコミュニティスペースのような所で開かれていたごく普通の書道教室に毎週欠かさず通った。


和服を召されて髪をアップに結われたご年配の女性の先生と、そのお隣にはやはり和服とお年の両方をお召しになり、眼鏡をかけられた枯れた感じの男性の大先生のお二方が高いお席に並んで正座をしていらした。


与えられた二文字又は四文字の言葉を書いて、まず女性の先生に見ていただく。


女性の先生は、オレンジ色の朱墨汁をたっぷりと含んだ筆で、赤ペンならぬ朱筆を入れて直してくださり、正しいきれいな形にして、半紙を返してくださる。


直していただいた部分を見ると、確かにこう書いた方が正しく美しいと即座に納得のいく素晴らしい文字であった。


後方の席へと戻り、座わり直して居ずまいを正し、注意を守って今度こそはと気合を入れて書き直しては又お直しをしていただく。さらに書いては又、白い半紙がひらひらしないようにと気をつけながら畳の上をすべるように前進する。


このように座敷の後方から高いお席への移動を何回も繰り返すことになる。


それを根気があると呼ぶべきか、はたまた極めて我慢強かったのかは不明だが、ほとんど何をさせても「飽きる」ということのなかった私は、他の子どもたちが途中で私語を話し出すようになり、お菓子をもらったりしなければ硯に向かって真っすぐに座わらないようになってもなお同じ練習を苦も無く繰り返すことができたのであった。


そうこうしているうちにようやく女性の先生が「良くできました」と微笑まれ、大先生にお見せなさい、さあさあ隣にどうぞと態度で示してくださる時がやって来る。


勇んでお隣まで移動すると、大先生は、筆を高く上げられて全部の文字に大きな二重丸をつけてくださった。


さらに「ここは勢いよくハネる、ここをもう少しタメて長く書くと、さらに力強くなって、より良くなりますね」などと丁寧なご説明とともに見事な朱筆がお手本としていただけるのだ。


お教室が終わると二重丸のついた半紙を少しでも早く母に見せたかった私は、長い坂道を弾丸のように転がり下りて帰宅した。


この時も母は家の中にいて喜んで私を迎えてくれた。


ほんの少しでも遅くなると心配して門の前に佇んでくれていて私の居る場所まで迎えに来てくれることもしばしばであった。



美しい母の姿とりわけ母の笑顔を見ることは私にとって最大の喜びであった。


ある時、年賀状だったのか?お月謝か何かの連絡であったのか?御礼状だったのか何であるかは不明だが、何らかの形で母の書いた物が書道教室の女性の先生のお目にとまったことがあった。


女性の先生はたいそう驚かれると同時に「あらまあ!あなた、お母さまから習われたらいいのに!」と恥ずかしそうにおっしゃった。


小学校低学年の書き初め大会が始まるようになると、大人さながらの達筆な文字が揃って講堂に貼り出された。その時も或る先生からこっそり「お母さんに書いてもらえばいいのに…」と、何故あなたはそうしないのかと言わんばかりの不思議そうな面持ちで囁かれたことがあった。


母に書いてもらいさえすれば確かに毎年最優秀賞が取れるだろう。

だが私は一度も母に書いてもらったことはない。


母に書いてもらってまで賞を取る気もなかった。


習字は、鉛筆を尖らせるだけでノートに書けるような手軽な文字とは訳が違う。


だから、ろくに練習もせずいきなり習字の上手く書ける達筆な子どもなどいない筈であり、黒板やノートに書く字は下手なのに書き初めの習字ばかりがたいそう立派な子どもの作品は、本来なら誰が観賞してもおかしいと思われる筈である。


それでも当時の私はこうした行為を特におかしいと感じることもなく違和感を覚えることもなかった。それは、同じ作業を続けることつまり少しずつ練習を繰り返すことによって基礎的な力がつき必ず上達するということ、積み重ねによって実力が養えるということを既に書道のお教室で自ら実践し体得していたからであった。



小学校高学年になると、未熟な作品ではあったものの毎年入賞するようになり両親を喜ばせた。


母は「ママは崩した書体で早く書くばっかりだから読みにくいでしょう?ベラちゃんはきちんとした楷書が書けるから羨ましいわ」と遜って私の字を褒めてくれた。


アラビア石油に入社してすぐ新入社員だった私は大量の書類を渡されてお清書を任された。入社した当時はワープロもない時代だったから大急ぎで何枚も書かなければならない仕事が多くあり書き損じは許されなかった。


お蔭様でIBMの意地悪な人事部長からも「あなたの字はきれいだ。電話メモも丁寧で読みやすいね」と文字だけは褒められた。


中学・高校時代のお笑い仲間に誕生日プレゼントを伊勢丹から贈った時、配送伝票の送り状を見て「アマノの字、学生時代から全然変わってないね~。筆圧が強くてしっかりしてて。肩に力が入り過ぎなんだよ!ハハハハ!」とからかいながら礼の電話を掛けてきた。


文字は性格を反映しているといえそうだ。



最も身近な存在である親に甘えて与えてもらうばっかりで育った子どもは、努力せず、飽きっぽく、忍耐力に欠ける。


物質的にも、精神的にも、他人に与えることを知らないまま成長した子どもは、欲張りながめつい大人になるだろう。


そして、いくつになっても他人に甘えては上手に他人を利用する手口ばかりが増えることになってしまうだろう。


例えば芸能人が手軽に整形を重ね、小顔に見せるため頬や顎の骨を削る、気軽にレーザー光線をあてて色白に見せるなど、ビジュアルにばかりこだわり、小手先のテクニックを駆使してその場を凌げば、努力せずともキレイに見せかけることは可能であろう。


そうすれば、出し物の数ばかりが増えていき、いかなる手法で数打とうと、常連の取り巻き連中にしても、一体どこが、どのように良かったかなど具体的かつ的確な感想を述べることが出来ず、ただ諸手を挙げて無条件で5つ星をつけて誉め称えるだけという、見る目がなく、聴く耳をもたない座頭市や耳無し芳一ら烏合の衆たる偽りの常連賛美者たちばかりが追随する結果となり、何ら実のあるアドバイスは届けられず、今後の成長のためにも将来の発展にも繋がらない。


贋作に酔い痴れる愚か者はいくらでも存在するだろうしそうした者たちをだますテクニックを示すことも至極簡単であろう。


だが基礎から鍛錬した結果、その者自身が学び取り掴み取ったもの、何年もコツコツと積み上げて自ら習得したものが何ひとつとして存在せず、本格的なレッスンも受けず、定期的な練習に通って訓練を積むこともなく、総て気分次第の自己流を押し通して、お金も支払わず、時間もかけず、手っ取り早く目立つことや小銭を稼ぐことばかりを目指して活動をしてきたとすれば、本当の自信を持つことなど一生かかってもできはしないだろう。


親の力に限らず、実力ある者に頼り、権力ある者に依存して、他人の力に縋っては利用してきた者は、何度檜舞台に立とうと素人の域を離れず、自信に満ち溢れた輝かしい気持ちで観客に臨むことは困難であろう。


最後の最期まで暗雲に覆われたまま、澄みきった爽やかな晴天を仰ぐこともなく、コソコソと弁解や言い訳に満ちた言葉をいくつも並べなければ振り返ることもできないような後ろ暗い生き方ばかりしてきた結果であろう。


畢竟、何であれ自分の力で出来ることは極力自分ですべきであり、みだりに人様の力(やお金)をあてにすべきではないということだ。


そしてもしあなたの母親に、他を圧するほどのとてつもない悪性を見出したならば、そのような母親の力など決して借りてはならない。


そのような母親を頼りにせず、その悪質な血をせめて自分の中にまで取り入れないよう精進し努力するしかない。


そして、母親の悪しき血が自分にも流れており,母親の悪性を自分も宿しているという、動かし難い現実から目を背けることなく受けとめて向き合い対峙し、意識してその悪い血を受け継がないよう忍耐強く自分をコントロールしていくより他に生きる途はないであろう。


それが「どうしようもない母親」を持ってしまった『どうすることもできない子ども』の宿命であり宿痾ではないだろうか。


私はそう思っている。

2016年8月27日 (土)

フォトギャラリー・冷淡な乾いた時代を憂いて-「なれど、こらえきれなんだわ」-

時代劇・鬼平犯科帳に「おれの弟」と題する作品があります。


この作品には、剣の道ひとすじの高潔な男性と、美しくしとやかな女性とが織りなす哀切な純愛のみならず、


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義侠心、

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非道(果し合いでのだまし討ち)、

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親の権力を盾にした悪事とその隠蔽、

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敵討ちなど、

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時代を問わず日本人の心に沁み込むと思しき内容が凝縮されています。

 


鬼平こと長谷川平蔵の思いがこめられた台詞を一部ご紹介いたします。


悪者:「石川源三郎と知ってのことか」



「去年のことを覚えていような」

「わしも生まれて初めての敵討ちじゃ、しくじりはせんぞ」

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   悪者:「敵討ち?」



「弟の敵討ちじゃ」

「おのれに弟をだまし討ちにされて、怒りを鎮めようとしたが、なかなか鎮まらん」

「おのれのような奴を生かしておいては、後々庶人が迷惑をする」

 

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   悪者:「おい、源三郎の父は御側衆を務める石川筑後守なるぞ」



「なればこそ、なおさらに生かしてはおけん」

 

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「お役にある者のなすべきことではなかったやも知れんな」

「なれど、こらえきれなんだわ」

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他者の心情を慮る暇などない、真意を理解するよう努める必要などないとばかりの冷淡な言論が横行し、ドライアイならぬ「ドライハート」が際立つ昨今の風潮を遺憾に感じ憂慮しています。


インターネットを検索して次から次へと最新の情報を得るのも、ゲームに明け暮れるのも結構ですが、時には映画、テレビ、スポーツ、音楽、文学を観賞し、血沸き肉躍る熱き思いに駆られ、失われた情緒、枯渇した感性、他者の考えに共感する心、他者を称賛する言葉を育てる時間が必要ではないでしょうか。

 


私はそう思っています。

2015年5月12日 (火)

「品格のない人間関係」とは-「久米書店 ヨクわかる!話題の一冊」で、「女性の品格」の著者は、何と語った?-

2015年5月10日(日)午後5時30分(通常は午後6時から)からBS日テレで放映された「久米書店 ヨクわかる!話題の一冊」に、「女性の品格」の著者・坂東眞理子氏が登場した。

 


店主役の久米宏氏と店員役の壇蜜氏が毎週作家を招き、ご著書について語り合う。

 

http://www.bs4.jp/kumebook/

 


久米氏のテンポ良く快活な歯に衣着せぬ話術と、壇蜜氏のおっとりと丁寧な傾聴が好相性で、内容的にも、知識が増えたり、参考になったり、笑ったり、視聴して良かったと満足することが多く、しっとりとして物憂げな壇蜜氏の朗読も聞き心地がいい。

 


今回のゲスト坂東眞理子氏は、壇蜜氏が卒業した昭和女子大学の学長でもある。

 


ちなみに壇蜜氏は
日本舞踊の師範で、英語の教員免許と調理師免許も正式に取得している努力家だ。


ウィキペディアには「銀座のクラブでホステス」とも書かれており、20代の頃、銀座の高級クラブに勤務していたようだが、この実体験は壇蜜氏の血となり肉となって見事に昇華されているから、偏見を持つ者はいないだろう。

 

4月28日からは、週刊新潮で、「だんだん蜜味」という連載も開始された。

 


この番組では、壇蜜氏が、毎回黒板に著書のポイントを書いてまとめる。



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拙ブログでは、「品格のない人間関係」について、著者自身が語った内容を反訳して下記に貼った。

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参考にしていただきたい。

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*****

久米 「品格のない人間関係」って、これは何ですか?

 

坂東 それはね、もう絶対ね、この人と仲良くなると得だなあとか、この人にすり寄っていると良いことがありそうだっていうことを前提とした人間関係というのは、私は品格がないと思います。変な言い方だけど、昔、大宅さんが、あの、男の顔は履歴書で、女の顔は請求書っていうことを言ってましたけど、まあ、女性、


久米 大宅壮一さんですか。

 

坂東 うん。そう。あの、どんどん、その請求書、請求書、請求書、もっとこの人と近い、仲良くしておけば、色んないいことしてくれるんじゃないかって、心の中に請求書があると、卑しい人間関係になるんじゃないかなと思います

 


久米 男の顔は履歴書、女の顔は請求書。

 

坂東 うん。だから、女性も、請求書じゃなしに、履歴書の人間関係を作ろうと

 

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坂東 普通ね、色んなお世話をしても、あの、お世話をされる時、されるまでは、みんな「よろしく」、「ありがとう」、「よろしく、よろしく」なんて言うんだけれども、それをしてあげて終わったら、もう、その後、あの、音沙汰ないっていうことが多いんですよね。どうなってるっていうような、あの、報告も殆どないっていうことが多いのに比べると、「お世話していただいたお蔭で、今こんなふうになってます」とか、「進捗しました」とか、「成功した」とかって、ちょっと一言ね、言って頂くと、とても嬉しい。それはやっぱり「ありがとうございました」という言葉が、気持ちが、伝わってきますよね。

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壇蜜氏プロフィール


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%87%E8%9C%9C

 


http://fit-fan.co.jp/artists/danmitsu/

 


http://npn.co.jp/article/detail/32105016/

2015年5月 5日 (火)

米国の寄付は日常的行為-映画・「ジョンQ」に見る、継続した治療が必要であるのに医療費が払えないという理由で病院を出なければならない子供のための寄付金-

 

ジョンQ-最後の決断」という映画を観た。

 

米国の保険制度・医療制度に対する問題提起と、親子の深い愛情が描かれている。

 

ジョンQことジョン・クインシーのひとり息子が野球の試合中に突然倒れた。

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救急病院へ緊急搬送され診断された結果、息子の心臓には重大な欠陥があることがわかった。

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ところが、心臓移植手術には、莫大な費用がかかる。

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費用を捻出することができないジョンと妻は悲嘆に暮れるが、何としても心臓移植手術を受けさせて、ひとり息子の命を守らなければならない。
                                      

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このような状況に接して、決して富裕層とはいえないジョンの知人らがジョンの息子のためになけなしのお金を惜しげもなく差し出す姿、多くの寄付が寄せられる場面が次々と画面に映し出された。

 

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米国では、寄付は決して特別なことではなく、日常生活の一部である。

 


下記に内閣府の資料を貼ったので参照していただきたい。

 

映画にも見られるとおり、子供のためと情に絡ませながら、米国の富裕層に訴えかけ、呼びかければ、より多くのお金が集まることは言うまでもない。

 

さらに、その原因が未曾有の災害となれば、集まるお金の総額は、日本で集める寄付金とは比較にならないほど莫大に違いない。

 


映画の世界のみならず、実際に医療費が払えないという理由で病院を出なければならない子どもが存在するとすれば、集まった尊いお金は全額その子どものために使われねばならず、活動の途中で当初の目的を変更することは決して許されない。

 

 

当然、募金額の多少に関わらず収入金額を公表し、募金から医療機関に支払われた金額を公表しなければならない。

 

しかし、その国の政府が既に医療費補助を打ち出していて、実際に医療費が払えないという理由で病院を出なければならない子どもなど実在しないにも関わらず、それを理由にして募金を集めたとすれば、その罪は万死に値するであろう。

 


私はそう思っている。

 


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https://www.npo-homepage.go.jp/about/kokusai-hikaku/kifunichibeiei-joukyou


2010年の日本の寄付総額は8804億円。米国は
25兆5245億円。

 


http://www.setsuyaku-lifeplan.com/child/08/0314.html


地震などの災害に対する義援金や、赤い羽根の共同募金のように、日本では広く寄付を集める活動が行われています。しかしながら、実はアメリカと比較すると、寄付で集まるお金の総額は、とても少ないのが現状です。政府(内閣府:税制調査会)の資料によりますと、アメリカでは2002年の個人が寄付をした総額は229千億円にも上るのに対し、日本では2189億円と、実に100倍以上の大きな開きがあります。(2002年)

 

2015年3月31日 (火)

「地獄とは他人のことである」-見下げ果てた、ハイエナ男に贈る、卒業証書-

昔の私は「女シャーロックホームズ」と呼ばれるほど勘がよかった。

 


男性上司に「あなたからは、何もかも、見透かされているみたいだ……」と恐れられ、親しくしていた年長女性から「ベラちゃんと結婚した人は大変ね、浮気はバレるわ、ヘソクリは見つかるわで……よっぽどの人じゃないとね」と心配され、趣味で主人が受けた「日本語検定試験」では、四文字熟語2問と漢字1問の出題予想が的中して、大いに感謝された。

 


だからというわけでもないが推理物のテレビ番組は好んで見ている。


シャーロックホームズの冒険」の再放送は最近終了してしまった。

 


親友と砧の国際放映(撮影所)を訪問した時、「あっ山さんだ!」(テレビ番組「太陽にほえろ」での役名)と瞬時に緊張したのは、現在引退されている露口茂さんという名俳優で、その露口茂さんが声優としてホームズ役を務めていたことも一段と番組を引き締めていた。

 


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ところが、実際の露口茂さんは、緊張を強いられるどころか実に気さくだった。

 


「テキサス!こんな可愛い子がファンなんて、いいじゃないか!」とお世辞とともに近づくと、にこやかに話しかけてくださったので、私は一気になついてしまった。

 


テキサスとは俳優の勝野洋さんの愛称だ。

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勝野さんの他に宮内淳さん、小野寺昭さん、竜雷太さんたちもいらして、持参した勝野さんの写真が満載のうさぎの絵が描いてある赤いミニ写真アルバムを回して見ながら談笑したり、勝野さんにプレゼントをお渡ししたりした。


「勝野さん、ファンクラブの集い開きましょうよ?!」と懇願していると、露口さんが「おいおい、テキサスだって忙しいんだから!代わりに私が出てあげるよ!」といたずらっぽい目をしておっしゃったので、私は大笑いした。

 


こんなにさばけていらして、ユーモアのある御方とは、思いもよらなかったのだ。

 


テキサスは、「僕自身としては、そういう集まりに、参加するつもりはあります」と、直立不動で兵隊さんのように答えた。

 


山さんとテキサスは、片や余裕に満ち、片や生真面目と対照的だったが、どちらも高校生の私にとってカッコ良過ぎる男性だった。

 


親友と私は守衛のおじさんが呼びに来るまで、興奮に包まれながら別世界に遊んでいた。

 

 そんな思い出のある露口茂さんのお声はシャーロックホームズにぴったりであった。

 

放映された作品中「這う人」(THE CREEPING MAN)が印象深い。

 


筋書きはともかくとして、2点ほど哲学的な台詞があるからだ。

 


1点目は、ホームズが、高名な教授に名刺を差し出して失礼な態度を取られた時の発言だ。実はこの偉そうな教授こそ醜悪な「這う人」にほかならない。

 


「どうぞ名刺です」

 

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「221番地B……信頼感を抱かせる住所ではないな」

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他人の信頼など期待していません。自分で信じていますから

 


こう言い切ったのだ。

 


カッコイイ!そうお思いにならないか?

 


他人の信頼など求めず、自分で自分を信じていろということに尽きるのだが、わかってはいても、なかなかこうまで言い切れるものではない。

 


多くの人は、自分の心情や立場を他人に理解してもらいたいからこそ、自分の発言や主張を他人に信じてもらいたいからこそ、わかってほしくて、必死になって、書いたり、話したり、活動をしたりする。

 


だが、はやる気持ちだけが空回りして逆効果になることや、困っている足元を見透かされて、溺れる者となってワラをつかんだ挙句の果てにつけこまれたり、ひどい場合にはお金を巻き上げられたり、利用されて急に梯子を外されたり、凄まれたり、脅されたりする危険も生じる。

 


どんな時も他人をあてにすることなく自分を信頼して泰然自若としていることが賢明と、日々自分に言い聞かせなくては、他人から酷い目に遭わされる可能性がある。

 


地獄とは他人のことである」とのサルトルの思想も忘れてはならない。

 


2点目は、人はこう選択して動くに違いないと、あらためて知らされた発言だ。

 


不和になるとしたら、どちらを選びます?

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これは、自分の身に起こった奇怪な現象を信じてくれないなら婚約を解消すると婚約者から言われた助手の男性が、奇怪な現象など実際には発生していない、君が宥めてあげなさいと語り、娘の恐怖は夢だと一笑に付す教授との板ばさみになった時にホームズが語った言葉である。

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この場合、二者択一が困難で、助手は「そんなこと出来ません」と苦悩するが、実際に、意見が異なり対立する者たちの板ばさみになった時、「不和になるとしたら、どちらを選ぶか」を考えれば、最近は誰もが、自分にとって得になる方、社会を渡って行く上で利益になる方を直ちに選択するに違いない。


権力者の蒔き餌につられ、強者の誘惑に転び、弱者を食い物にし、困っている者を陥れ、焦らしては、弄んで楽しむ、ハイエナのように質の悪い者たちは、概して実力が伴っておらず頭が悪い。

 


だから、どこまでいっても暗躍する人生のまま、湿った環境にしか棲息できず、野心ばかり募らせても大きな発展は決して望めないだろう。

 


破顔一笑の豪快な笑いを見せる機会にも恵まれず、心に暗雲がたちこめて最後まで晴れ渡る日は訪れないと信じている。

 


と言うのも、女シャーロックホームズどころか、私の勘も鈍ったもので、最近或る男性が本性を剥き出しにして、支払う必要性のまったくないお金をいきなり主人に宛てて請求したうえ、やっとのことで具体化させた約束をも平気で反故にしたからである。

 


これらの事態に驚き、多大な衝撃を受けた私は、実は現在体調を崩している。

 


私の見る目のなさから、ただでさえ忙しい主人に多大な迷惑をかけ心労を与えてしまった。真摯に謝るとハハハと笑った。

 


主人は時代劇によく出て来る粋で気風のいい男性のように歯切れが良く、言いたいことは言うが、後は根に持たず、あっさりしていて忘れるのも早い。

 


竹を割ったように清々しく、割り切って口笛を吹きながらサクサクと次に進んでゆく豪胆さがある。

 


行っていない別荘や家にも電気代やガス代などが毎月発生していることに気がついた私が「もったいないわね」とつぶやくと、主人は直ちにこう言った。

 


それが別荘ってものだよ

 


この台詞、誰もがカッコイイと感じるに違いない。

 


私はそう思っている。

2014年7月 1日 (火)

フォトギャラリー-ケイン号の反乱-

下手な解説は抜きにして、機会がありましたらぜひご覧になっていただきたい映画の一つです。


後半の軍事裁判の場面には特に重みがありました。


勝訴判決へと導いた弁護士を演じたホセ・ファーラーが勝った者たちそれぞれに与えた戒めの言葉の数々は、人間のありようについて鋭く問いかけていました。


その昔西部劇が好きだった私は、「リバティバランスを撃った男」で名を馳せた若き日のリー・マービンが、脇役で登場していることにすぐ気づきました。


往年の名男優ハンフリー・ボガート(ボギー)や少し古い世代において大人気を博したフレッド・マクマレーが、いかなる役どころで登場するのか……


見どころは人それぞれでしょう。

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2014年5月31日 (土)

大人の女性、いいですね。

昨夜、「原宿ブックカフェ」を観た。

「ブックサロン」のアシスタントは、江口ともみさん。

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まず、ゲストの方をお迎えするお作法がきちんとしていた。


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江口ともみさんは、ゲストの方がテーブルに到着されるまで動かず静かに待っていた。


ゲストの方をお迎えして挨拶を交わすと、余裕をもって司会の川端氏と同じ方向からアシスタント席に着いた。


だから、ゲストの方が到着する前に、いち早く会場のお客様や視聴者にお尻を向けるようなこともなかった。

 

 

次に、ゲストの方のお話をうかがう態度が自然体で良かった。

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落ち着きがあって、わざとらしさがなく、

自分が話そう、話そうとするのではなく、聞き役に徹していた。

 

江口ともみさんは、終始、しつこく首を縦に振り続けることもなく、

お隣の川端氏と同程度のタイミングで、時折ゆっくりと頷いていた。

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静かな空間の中で、相手のお話をじっくり聞いている様子が伝わり、

耳障りな笑い声を立てることもなく、自我を挟みこむこともなく、

相手がお話しをしやすいように、相手の良い点を引き出せるような

雰囲気づくりをしていらして、「ブックサロン」らしいと感じた。

 

鮮やかな衣装と靴も素敵だった。

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江口ともみさんは、ハイヒールがよく似合う。


つま先立ちをしているように高いヒールの靴に履かれていて、前につんのめりそうになって絨毯の上から身動きが取れずに立ちすくむようなこともなく、堂々とした姿を見せてくれた。

 

江口ともみさんは、この番組が醸し出そうとしている、味わい深い、程良く熟した雰囲気によく溶け込んでいて、安心して観ていられる心地良いひとときであった。

 

コグちゃん(私の主人)曰く「川端さんも嬉しそうだね」とのこと。

 

「『原宿ブックカフェ』から本とコーヒーの素敵な出会いをお届けする」のがこの番組のコンセプトであるようだ。

そうであるとすれば、「本好き」なだけでは片手落ちで、江口ともみさんのように「コーヒー好き」でもある人を代表として出演させるのが筋であろう。

 

本来の自分をつくり変えることなく、自分の実力を頼りに、誰からも疑義を差し挟まれるようなことも、自分だけが浮いていると感じるようなこともなく、溶け込むことの出来る世界で、好きなことに一途にじっくりと腰を据えて取り組み、努力を惜しまず自然体の活動を続ける女性はきっと成功する。

 

私にはそう思えてならない。

2013年12月 6日 (金)

好きなものには理由がありました

実は結構TV好きだ。

 

 

先日TVをつけたら「FNS歌謡祭」だった。

 

止せばいいのに、最後まで聴いてしまった……

 

 

 

そのうち一緒に大きな声で歌い出して

 

コグちゃんの真剣な作業を邪魔した(笑)

 

 

 

欧陽菲菲さんは相変わらずパワフルだった。

 

河村隆一さんの歌を聴くのも久し振りで。

 

背広の上着が大きくてサイズの合っていない歌手がいたり、

 

松下奈緒さんのピアノを弾く姿は絵になっていた。

 

 

 

音楽は、聴くのも、歌うのも大好きだ。

 

時間が出来たら思いっきり歌いたい。

 

 

 

そして、明日は「刑事コロンボ」がある。

 

 

 

応訴に忙殺されてつい忘れていたり

 

見られないことも多くなってきたが、

 

昔から大好きな番組だ。

 

 

 

時間が出来たら全作品をじっくり観たい。

 

 

 

刑事コロンボの犯人は、まさしく「インターナショナルセレブ」である。

 

そのへんにうろついている芸能人崩れの紛い物セレブなどとは訳が違う。

 

 

 

邸宅や庭園の広さ、豪華絢爛な内装、家具、

 

自宅に併設されたプールにテニスコート、高級外車の数々。

 

身に着ける品物から会社のデスク周りや調度品に至るまで

 

贅の限りを尽くした人物が毎回必ずと言っていい程登場する。

 

 

 

往年の大スターである「サイコ」のジャネット・リーや

 

「ダイヤルMを回せ」のレイ・ミランドが登場することも、

 

「スクリーン」や「ロードショー」という映画誌を毎号読んでいた

 

古い映画ファンである私にとって大きな見どころである。

 

 

 

そして、何よりも好きなのは、

 

そうした権力者や金の亡者たちとはまったく別の世界に居て、

 

自分の能力だけを信じ、納得のいかない点を、どこまでも

 

粘り強く、恬淡と、時にはユーモラスに調査し、深く探って

 

解き明かしていく、コロンボさんの姿である。

 

 

 

ポンコツの車やよれよれのレインコートを馬鹿にされても、

 

「髪の毛がボサボサの醜男が来ただろう?」と陰口を叩かれても、

 

「あいつは精神異常だから担当者を変えてくれ」などと

 

ロス市警の上層部に圧力をかけられても、お構いなしで

 

悪モノどもに密着し、黒だと思う相手への追及を緩めることはない。

 

 

 

こういう不屈の精神が大好きだ。

 

こういう精神に私は魅かれる。

 

 

 

日本IBM株式会社に中途入社して以来、

 

「権力者」とその権力の行使振りが大嫌いになった。

 

 

 

そんな私だから、権力者たち、とどのつまりは金の亡者たちに対して

 

ダサい格好で、乱れた髪をかきながら、駄犬を可愛がり連れ回して、

 

どこにでもあるような、安いお豆のスープを美味しそうに飲み、

 

どこにでもいるような定食屋のマスターと、世間話をしながら、

 

一歩も引かずに闘いを挑んでいるコロンボさんの

 

自然体の姿が好きなのである。

 

 

 

銀幕やTVのヒーローたちはいつもまっすぐな瞳で権力者に切りこみ、

 

瞬時に動揺する汚れた者の一挙一動を、決して見逃すことはない。

 

 

 

金に転び、権力に媚び、人脈・金脈に阿る卑しさ……

 

コグちゃんも、私も、そんな人間でなくて本当に良かった。

 

心からそう思っている。

 

2013年9月14日 (土)

受けたご恩は何倍返し?

「世界陸上」が終わってから、

どうしても観たいと思うような

テレビ番組はほとんどないが

今話題のインパクトあるドラマは観ている。


「愛と誠」という男性向けの漫画には、

「受けた恩は倍に。受けた恨みは3倍にして返せ!」と

今流行りのドラマの決め台詞によく似た言葉を

父親から教えられたという少年も描かれていた。


今や、


受けた「恩」は、「仇」にして、「倍返し」?



それどころか、「10倍返し」まで?!


そんな世の中になりつつあるのかも知れない……

2012年5月 6日 (日)

渦中の二股俳優にも劣る存在

旅行中ホテルの部屋でテレビをつけると、同じ話題でもちきり。

それは、塩谷瞬さんという男性俳優が、園山真希絵さんという料理研究家の女性と、国際的に活躍するトップモデルの冨永愛さんに、二股をかけていたという騒動であった。

 

男性俳優はまだ29歳だから、本当にこの人でいいのかどうかと迷い、結婚に踏み切りかねた気持ちはわからないでもない。

年上でおっとりした印象の料理研究家の女性と結婚の約束はしたものの、彼女とまったくタイプの異なる個性的なモデルが目の前に現われて、そのモデルも、男性俳優に対してまんざらでもない様子。

お互い、短期間のうちに恋愛モードに入ってしまったとすれば……どうするだろう。

仮に私が男なら、料理研究家との結婚話が煮詰まってきているとすれば、それだけに、急速に魅かれつつあるモデルにも結婚話を持ち出して打診するかも知れない。

だが、それ以前に、男性俳優は、その程度のいい加減な気持ちで結婚をとらえていたからこそ、今回のような悲劇が起きたのだと思う。

 

 

結婚をなめている人間が多過ぎるということだ。

「結婚は人生の墓場」とはある意味正しい。

こう聞けば、誰でも腰がひけてしまうことだろう。

だが、相手を唯一無二の存在として、病める時も、健やかな時も、お互いに支え合って生きていくと、多くの人々の前で宣誓し合うような人間関係が、人生において他にあるだろうか。

 

 

誰に強要された訳でもなく、自分の心に正直に立てたこの誓いという行為に、少しは責任を持っていただきたい。

結婚前ならば、お互いに誓いをもって認め合うような人間関係は結婚しかないということを。

結婚後ならば、多くの人々の前で誓った時の感動を、いつも心に留めていてほしい。

自分が、自分の人生の中で、たったひとり選んだ異性なのだから、どんなに大切にしても大切にし過ぎることはないと思えなければ嘘である。

逆に、このくらいの強い覚悟がない限りは結婚すべきではないし、結婚話を持ち出すべきでもない。

 

 

モテる人は、恋愛遍歴を繰り返して、徹底的に遊びたいだけ遊べば良い。それはそれで素晴らしい人生だ。

そして、恋愛体質の人がいるように、結婚に向いている人もいるのだから、女性は、相手がどちらのタイプかを見極めて、結婚したければ、結婚向きの男性とお付き合いしていくよう心がければ、傷つくリスクも少なくてすむだろう。

 

 

二股騒動が発覚した男性俳優は、「きちんとお別れしましょう」とモデルさんから呼び出されて、「きれいにお別れ」し、その後料理研究家さんとも連絡がついて「きちんとお別れした」と取材陣に答えていた。

つまり、男性俳優は、自分の至らなさから傷つけた二人の相手と直接会って、話したうえで、お別れをしたということだった。

 

 

ネットという仮想空間を通じたやりとりの希薄なメル友といった関係ならともかく、男女に限らず、古くからの友人であったり、一時は恋人であったなど両者が何度も顔を合わせていて、かりそめにも一定の期間は交流があり、共通する友人・知人が存在したり、同窓であったり、同じ職場や趣味のサークルで顔を合わせる者同士という関係があったとすれば、けじめのある終わり方を望むことは、人として当然なのである。

 

 

後々のことを考えれば、嫌なことがあった相手とこそ、きれいに、きちんとお別れすることが必要不可欠である。

今回、モデルの冨永愛さんのように、自ら働きかけて相手と話し合いの場を設け、お互いに納得したうえで次のステップに進もうとした考え方について、私は至極まっとうだと思うし、勇気をもって実行に移した彼女は実年齢以上に大人と感じられた。

 

 

それに比して、同い年の男性俳優には、やや非常識で幼稚なところが感じられる。

冨永愛さんは、そんな相手だと知っているからこそ、今ここで話して、聞いて、きれいに、きちんとお別れしておかないことには、いったい相手がどんなことを考えていて、今後何を言ったり、したりされるかわからないといった危惧があったのかも知れない。

 

 

最終的に申し上げたいことは2つある。

いかなるケースであれ、リアルの人間関係における顔見知りの者同士に、今後の縁を切らなければならないようなトラブルが発生した場合、まずは、冷静にお話し合いをしましょうと持ちかけること、そして、お別れするにしても、理解し合ったうえで、きれいに、きちんと解決しましょうと伝えることが大切であるということがひとつ。

もうひとつは、ごく常識的で当たり前の、きれいな、きちんとしたお別れの申し出にすら反発し、どこまでも喧嘩腰の態度を貫き、反復・継続して暴言を吐いた、50歳過ぎのガラッパチ在日女は、29歳の二股俳優にも劣る幼稚で未熟な人でなしということである。

 

 

結婚よりも離婚の方が大変だと聞くが、トラブルもしかりである。

怒りにまかせた穏当を欠く行為でトラブルを発生させて人間関係を壊すのは簡単だが、いざトラブルが勃発した時、心の傷を深めることなく、体調を増悪させずに、これまでの関係をきれいに、きちんと終わらせるためには、現在のみならず将来をも見据えて、円満な人間関係の解消を求め早期解決を望む勇気と、成熟した大人の対応が当事者双方に望まれることは言うまでもない。

 

 

トラブルに際しては、話をそらしたり、逃げたり、言い訳をすることなく、出来うる限り早い時期に誠意をもって話し合い、すっきりと清々しいお別れをして、一刻も早く忘れる方がいいに決まっている。

風邪をこじらせないようにと早めのパブロンを飲むように……

 

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