日記・コラム・つぶやき

2019年2月14日 (木)

世田谷区役所のどうしようもない職員及び関係者ら(齋藤憲明、富沢真人、好永耕、池田実佐子)

2019年2月14日、世田谷区(役所)を加害者とする裁判が、東京高裁で開廷された。

 


事件の概要はこうだ。

 


前述のとおり加害者は、世田谷区役所の職員である。


被害者は、世田谷在住の世田谷区民・S氏である。

 


S氏は、世田谷区職員から、「お願いできますか?」と或る仕事を打診された。


S氏は、世田谷区職員の求めに、「区民なので喜んで引き受けます」と二つ返事で応じた。

 


そこで、世田谷区職員は、一度はその仕事をS氏に依頼した。

 


ところが、その後、世田谷区職員は、特段の理由も告げず、S氏に仕事を依頼しなかったという。

 


口約束でも契約は成立するのであるから、世田谷区民として喜んで仕事を快諾したS氏が、「理不尽な対応」と感じて納得できず、世田谷区への遣る方無い憤懣を訴訟資料に爆発させたとしても不思議はあるまい。

 


ところが、弁護士ではない世田谷区の代理人ら(齋藤憲明、富沢真人、好永耕、池田実佐子)は、一連の事実関係について、世田谷区の某職員に調査・確認しなかった。

 


「(S氏への)仕事の依頼については不知(知らない)」

 


「一旦は(S氏に)仕事を依頼しながらそれを取り消したという事実があったのだとしても,当該行為が控訴人らに対する不法行為となるものとは解されない。」

 


と主張しただけであった。

 


しかも、「和解には時間がかかる」とのことで、話し合いにも応じていなかった。

 


そもそも、世田谷区職員への事実関係くらい調査・確認すべきであり、そのうえで、「S氏からせっかくご快諾いただいたのに失礼しました」、「S氏をお断わりして、他の方に仕事を依頼したのは、こういう理由でした」と、誠意をもって回答すべきである。

 


さらに、法廷で、被控訴人席に座っていた世田谷区の代理人
齋藤憲明、富沢真人は、どちらもマスクを着けたままであった。


他の被控訴人席には、女性を含む何人もの弁護士が座わっていたが、二人ともマスク着用だったのは、世田谷区の代理人・齋藤憲明、富沢真人だけであった。

 


齋藤憲明と富沢真人がインフルエンザなのか、風邪の予防なのか、何ら発言したくないのか、は判然としないが、インフルエンザなら家で寝ていろと言いたいし、裁判所に出て来て、被控訴人席に座るのなら、堂々と顔くらい出すべきであろう。

 



傍聴席には、
世田谷区代理人と思しき好永耕(よしながこう)、池田実佐子ほか1名、つまり合計5名もの世田谷区関係者が揃って出廷して来ていたのだから、代わりに他の者を前に出しても良かったのではないか。


そもそも、富沢真人(とみざわまさと)に至っては、下記の座談会に参加した際も、12名のうち唯一顔写真を出していない。

 


https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/recruit/data/sosikinai_profile1204.pdf#search=%27%E5%AF%8C%E6%B2%A2%E7%9C%9F%E4%BA%BA%27

 


写真を公開できない訳でもあるのかと疑われても仕方がない。

 


外見コンプレックスがないとすれば、世田谷区代理人の
齋藤憲明と富沢真人が、2人揃ってマスク着用のままというのは、3名の裁判官らに対しても失礼ではないか。

 


私はそう感じている。

2018年1月 3日 (水)

新年のご挨拶

明けまして おめでとうございます(戌年)。

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夫は、庭に流れ着いた溶岩の如く動じず

妻は、に咲く水仙の花の様に凛として

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今年も 助け愛・ふざけ愛・励まし愛ながら

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気力と根性で困難な問題と闘ってまいります。


一度の人生に納得のいく結果を残すべく

何ごとも全力投球でベストを尽くしたい。

 

水鳥の足に似た見えない努力を重ねたい。

 

信念と情緒を大切に、真実を追求したい。

 

そんな気持ちで2018年を迎えました。

 

皆様にとって素敵な年となりますように。

2013年11月28日 (木)

たたみイワシかワッフルか

中学・高校の同窓会は5年に一度開かれる。

 


すこぶる体調の優れない私は、

元気なうちにみんなの顔が見たくなった。

 


そこで、介護者兼付き人として(笑)

コグちゃんの同伴を事前に伝えると

遠路はるばる母校まで足を運んだ。

 


すると、当然ながら、後から後から、次々と旧友がやって来た。

 


面白いことに、ほとんどが昔の友人と二人連れで受付に姿を現す。


これはすごいことだ。

 


会場には、大きな木のテーブルが9つほど並べてあった。

真ん中後方に恩師のご臨席、その前方は食事やポットが乗る宴台。

 


そして、左右4つずつのテーブルに、

昔のグループ構成と何ら変化のない顔が勢揃いした。

 


ひとたび椅子に鎮座ましませば、

長方形のテーブルにベッタリと張り付いて

「動かざること山の如し」

 


「たたみイワシみたいに見えたね」

「ワッフルだよ……」


会場を出た私は、コグちゃんと、こんな会話を交わした。

 


可もなく不可もないおとなしい美女軍団

斜に構えて眼光鋭いおそろしい毒舌グループ

秀才グループ、部活動グループ、その他大勢……

 


昔とまったく同じ塊(かたまり)の中にぼやけて顔が見える。

 


ひとたび腰を下ろしたきり、食べ物でお皿を埋めるために

立ち上がる以外、動こうとしない同級生たちがほとんどだ。

 


そんな中に、居心地の良い塊からしばし抜け出し、遠征して、

別のグループに話しかけに行く同級生の姿も時折見られた。

 


突然やって来た思いがけない旧友の訪問におじけづいて(笑)

驚きとともに立ち上がり、慌てて応えている同級生の表情は

自然な感動に多少の照れも加わり殊の外嬉しそうな笑顔であった。

 


こういう姿は、近くに居て見ているこちらまで嬉しくなる。

参加して良かったと思える、弾けるような瞬間であった。

 


そうだ。

せっかく来たのだもの動いた方がいい。

グループを超えて話しかけた方がいい。

 


それぞれのグループの中に話してみたいなと思う女もいたが

両脇にボディガードのように陣取るおそろしいタイプの女性が、

私の勇気ある行動を鈍らせた(笑)

 


座り込みでもあるまいに……

話しかけに行っていた女性は、軽やかな躍動美に満ちていた。

 


かねてから私は

「ひとりで参加して、ひとりで帰れる同窓会」を


提唱して来たのだが、どうにも無理があるようだ。

 


型焼き器に流され、押しつぶされたように固まって

冷たくなっていては、それぞれの持ち味がわからない。

 


「クジで席を決めて座るようにしたら?」

などと提案したら、大顰蹙を買うだろう。

 


ならば、こんな喩はどうだろう?

 


大きな花瓶にたっぷりと活けられた花々もいいけれど、

時には一輪挿しの花のようにそっと佇んでいてほしい。

 


そして、どんな花なのかなと愛でに近寄ろうとする者たちに

微笑みかけてくれる、小さくもおおらかな花であってほしい……

 


中学・高校時代に結ばれたグループにいつまでも縛られて、

自分の魅力を限定公開しなければならないとすれば、

それは寂し過ぎる……

 


そんな思いをつのらせた帰りの電車内であった。

 

 

わたしたち夫婦は、いつまでも二輪草……

 

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2013年11月20日 (水)

11月生まれの友たちへ

好きな人の誕生日を知ると、冬に生まれていることが多い。

 

 

大好きだった両親がどちらも冬に生まれたせいであろうか。

 

 

そして、どちらも冬つまり誕生月の近くに亡くなっている。

 

 

そのせいか、誕生月には心身ともに良くない変化も生じやすいとの偏見を持っている私は、お誕生日をお祝いするとともに、お誕生月には気を引き締めて、より一層健康に注意してほしいとの注意を呼びかけるよう心がけている。

 

 

一方で、こんな悪しき風習の存在も伝えておきたい。

 

 

それは、韓国の「誕生日パン」である。

 

 

この風習を知ってから、私は、これまで平気で口にしてきたコグちゃんや私の誕生日を、他人に知られることがとても恐ろしくなった。

 

 

誕生日を祝うどころか、逆に反転させて、誕生日の人物を標的として辱めを受けさせるというのだから、どこまで心が捻じれていて、いじけていて、暗く、底意地が悪いのだろうと信じられない悪寒が背筋を走る。

 

 

かように凄まじい「誕生日パン」によって内臓が破裂した人もいるという犯罪行為までが引き起こされ、傷害事件に発展したというのだから、もはや看過することのできない社会問題でもある。

 

 

百聞は一見に如かず……まずは下記のサイトをご一瞥いただきたい。

 

 

http://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/657277/

 

 

http://sportsseoul.jugem.jp/?eid=7022

 

 

http://blog.livedoor.jp/saladgreen/archives/51075756.html

 

 

このような事件を起こし、電柱に縛りつけられている姿を見ても、笑っていられる残忍性は一体どこから生じるのだろう。

 

 

共感性の欠如もあるだろう。

 

 

何であれ、他人ごとと切り捨てて、自分と、自分の血を分けた家族さえ良ければそれでいいとする自己中心性もあろう。

 

 

何よりも、人の誕生日やお祝いごとを心から祝福することができない、

 

 

つまり、他人の幸せな姿を祝う側に自分がいることには耐えられない、

 

 

他人の笑顔を直視することが腹立たしいという心の貧しさが集合して、

 

 

「誕生日パン」という倒錯した狂気の世界を構築したのかも知れない。

 

 

そして、最も恐ろしいのは、誕生日を祝ってあげている振りをして、

 

 

誕生日ケーキを囲む輪の中につくり笑顔で参加し存在していながら、

 

 

腹の中では、「誕生日パン」を実行してやりたいとの謂れなき私怨を

 

 

肥大させているサイコパスに近い偽りの心を秘めた陰湿な者であろう。

 

 

吉と凶は背中合わせであり、どちらも人生には等しくついて来ると私は思っている。

 

 

今日の幸福は明日の不幸に繋がるかも知れない。当然ながら逆も又真なりである。

 

 

かかる考えから、好きな友人たちのお誕生日を前に、

 

 

体調管理と警戒体制をも強く呼びかけた次第である。

 

当日は、私の分まで、豪華なお食事とちょっぴり高級なお酒を楽しんでほしい。

 

 

11月生まれのI、Uさん、Nさん、Tさん、A。

 

 

そして、今も、大・大・大好きな、かけがえのない私の亡き父にも、

 

 

記念すべきお誕生日、おめでとう!

 

 

いつまでもそのままのあなたでいてよね。

2013年11月10日 (日)

15年前の幹事さん達との記念写真

この時が「学年会」の始まり。

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発起人は私だった。



理由は「みんなに会いたかったから」


昨日はMとNが不参加で残念。


次回まで元気でいたい。



そして又みんなの姿を見たい。



私はそう望んでいる。

2013年11月 9日 (土)

危険な「幸せ病」患者

幸せだ

幸せなんだ

ナンマイダと念仏を唱えるように

事ある毎にブログに書いている人。

 

落ち込んだら、

それは日々平穏だから、

幸せだから、

 

だから、

ちょっとしたことで

落ち込むのだ、

気にすることはない

くよくよすることなどないと書く。

子供が落ち込んでも

あなたは天才と褒めそやし

子供が給食を残せば

試食に行って

こんなにまずい給食なんか食べなくていいと言う。

そんな母親だったようだ。

 

子供たちは、定職にも就かず

次々と、ひとつ屋根の下から離れて行き、

それぞれが生きづらくて大変な様子を見せているようだ。

 

自称・熱くならずに賢く生きる孟母は、

時折現地まで行って

高級ホテルに同宿し

未だに傷を舐めてやらねばならないようだ。

 

叩かれても、批判されても、

それは輝いているからだと

胸を張り過ぎて、あごまで前に出して

物事を、ありのままに受けとめようとせず、

履き違えたポジティブシンキングという名の

負け惜しみへと直ちに転換して、

 

幸せだから

輝いているから

と藉口(しゃこう:こじつけること)して、

いち早く追いやって、

忘れ去ろうとするのが

人生の知恵だと言うつもりなのか。


時には真正面から受け止めろ。

なぜこんな気持ちになったのか、

経緯や事実をじっくり確認することを避けずに

時間をかけてとことん向き合ってみろ。

 

どんな現象にも必ず理由がある。

 

ただ、向き合いたくないだけ。

直視しようとしたくないだけ。

弱いのか、卑怯なのか、怠惰なのか。

 

落ち込んだら、それがなぜなのか、

理由と思えるものを書き出してみろ。

頭の中を整理してみろ。

 

とことん落ち込んでみないことには

正体や実態が何なのかわかりっこない。

わからないから、

だから、情緒不安定なのだろう。

だから、幸せなんだと呪文を唱えれば完了。

だから、輝いているからだとの着地で終了。

自分を誤魔化していれば大きなツケが回ってくる。

何も理由がないのに、しばしば落ち込むとすれば、

その反動で、時に馬鹿馬鹿しいほどはしゃいだ文を書くとすれば、

それこそ、本物の病気かも知れない。

どんな内容かは不明だが、こんな題名の本もあるようだし。


http://www.amazon.co.jp/%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%80%8C%E5%B9%B8%E3%81%9B%E7%97%85%E3%80%8D%E3%81%98%E3%82%83%E3%82%93-%E5%BF%83%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E6%96%B9-%E5%A4%A7%E8%B2%AB-%E3%81%95%E3%82%84%E9%A6%99/dp/4286070476

畢竟、本当に幸せな人は

自分で自分を幸せだ!と声高に叫んだりせず、

本当に輝いている人が

私は輝いている!

などと誇示することもない。

幸せも、

輝きも、

本物は、きっと、どちらも、

強烈なものではなく

騒ぎ立てるものでもなくて、

自ずと、そっと、立ちのぼる

ささやかな、ほんわかとしたものだろう。

幸せや輝きを求める気が強過ぎれば、

 

逆に逃げられてしまうに違いない。


私はそう思っている。

 

2013年11月 8日 (金)

おのれの偽装表示を止めよ

そろそろ止めよ。

 

「自分は輝いている」

「自分は金」との、偽装表示。


そろそろ止めよ。

 

自分が輝いているから、 

だから、悔しくて、批判されるのだ

 

自分が輝いているから、 

だから、妬ましくて、叩かれるのだ

との、ひとりよがり・自己満足・独善性


輝いているから、ではなく、

輝いていないのに、

自分は輝いているんだ、自分は素晴らしいんだと、

ひとりでわめいている。


だ・か・ら、

静かにしろ、やるべきことをやれ、もっと勉強しろ 

と、叩かれる。


具体例を挙げようか。


中学・高校の上級生に、

「カリスマ振付師」と呼ばれる香瑠鼓さんがいる。

中学時代、部活動が同じで、副部長だった私は、

当時「カルコ」と呼ばれていた香瑠鼓さんから

とても可愛がってもらった。

 

昔から優しい人だった。

私の冗談によく笑った。

可愛らしい笑顔が大好きだった。

 

そして、香瑠鼓さんは、

高校時代から、体育館の鏡の前で、独り、

ピンクのレオタードを着て、黙って、踊っていた。

 

人一倍見えない努力を重ねて来たから、

自分で叫ばなくても、

世の中が香瑠鼓さんをひっぱり上げた。

 

実力があって、輝いている香瑠鼓さんを

叩く人はいない。

批判する人もいない。

応援する人ばかり。


ちなみに、下記のスタッフのメッセージを書いたのは私……

http://www.kaoruco.net/about.html


もうひとり紹介しよう。


私の中学・高校の同級生に、

本物のインターナショナル・セレブがいる。

同じクラスだった時から、

ただの一度も嫌な気分にさせられたことがない。

 

むしろ、合唱のリーダーだった彼女から、

合唱祭が終わったクラス全員の下駄箱に

ねぎらいの手紙とアメが入っていて、

感動したことは誰もが忘れないだろう。

一番疲れていたのは彼女なのにね……

 


放課後、クラスキャンプの「しおり」を作っていると、

彼女がやって来て、机に向かっている私に声をかけた。

 

「よくやっているねー、アマノは……」

「私、こういうこと好きだから……」

気恥かしさを隠しながら答えると、

彼女はすかさずこう言ってくれた。

 

「いや、好きだけじゃ出来ないよ」

彼女も、誰にも増して笑顔の可愛い人だった。

 

人を大切にして、輝いている寺尾のぞみさんを

叩く人はいない。

批判する人もいない。

応援する人ばかり。


ちなみに、下記は寺尾さんが主宰している

「ミステリオ」というウェブサイト

http://msterio.com/


彼女たちの輝きは、

どちらも本物だから、

彼女たちを見つめる相手も

同じように照らしてくれる。


だから、

叩かれていることや

批判されていることを、

おのれが輝いているからだなどと

牽強付会な言い訳でごまかすのは

そろそろ止めるがいい。


おのれが、上っ面だけ、

表面処理をしただけの

金メッキであるから、

だから、叩かれて

メッキが剥がれる。

再度表面処理を施す。

そんなことの繰り返しは

そろそろ止めるがいい。

 


いくつになっても、

駄菓子屋に集まる子供みたいな

コメントしか受け付けないから

だから、慢心する。

 


甘やかさない方がいいのは、

何も、肌や身体だけではない。

頭や脳味噌だって、決して甘やすべきではない。

 


叩かれたら、

批判されたら、

歪曲させずに、改竄せずに、

そっくりそのまま受けとめよう。

しばしじっくり考えよう。

 


心静かで冷静なひとときは

とてつもなく傲慢な人間性を、

少しは変えさせるかも知れない。

 


さわぐな


わめくな


認められたいのなら、日々の精進が

名を売りたいのなら、見えない努力が

上に立ちたいのなら、人一倍の勉強が


必要と知ることだ。

 

おのれの偽装表示を止めて、


この年になっても知らないことの多い


馬鹿な人間と認めることから始めるといい。

 

私には10年以上学び続けている勉強がある。

そのことについてブログ等で発表しないのは、

まだまだ未熟であり学びの途上にあると思うからだ。

 

学問や真理の前では誰もが頭を垂れ、


謙虚になるべきであろう。


私はそう思っている。

2013年11月 7日 (木)

最も恐ろしい「知識の偽装表示」

食品の偽装表示について、世間がかまびすしい。

伊勢丹も、三越も……などとうなだれている人。

返金を求める人たちもいるという。

 


車海老を食べた!と人に言えるから、ブラックタイガーは美味しかった?

芝海老だ!と思って食べればこそ、バナメイエビが美味しかったの?

どちらでも、召し上がって美味しかったのなら、勘弁してあげたい。

 


何年も前に消費期限が切れていた海老を手渡して調理させたとか、

腐った海老をご高齢のお客様に提供した事実が発覚したとすれば、

取り返しのつかない話だと思うし、告発でも抗議でもされて当然だが、

 


新鮮で、食べてみて、お味もお気に召したのならば、

気分良く、高級感もあって、その分良かったのでは?

などと少しばかりふとどきな考えも去来する。

 


「どうせ私をだますなら、だまし続けて欲しかった」という古い歌の歌詞もある。

 


何であれ、表示やブランド名やお店の雰囲気や店員さんの愛想笑いなどではなく、

本当に気に入った商品に対して、「これならば、だまされたとしても仕方がない」

と思ったら、惜しみなくお金を支払って、手に入れよう。

意識していた訳ではないが、私はこうした感覚を大切にしてきた。

 


先日、こぐちゃん(主人)が上着をおあずかりしてもらうことがあった。

 


すると、その男性から「ご主人のスーツ、上質ですね。

イタリアで、ローマ法王が仕立てているブランドですよ」

と伝えられて、少しばかり驚いた。

 

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こぐちゃんは、着る物や持ち物にはまったく興味がない。

お洒落にも無頓着だから、総て私が、手触り、肌触り、色合いで

選ばせていただいてきた。

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背広の内側に隠れているような、目立たない表示でも、

機会があって、違いの分かる人が見てくれて、ひと目でわかってくれて、

「良いものを身に着けている人なのだな」と思ってくれればそれでいい。

 


ひけらかすことが野暮で下品なのは、何も着る物や持ち物ばかりではない。

 


お馬鹿な者ほど、底の浅い知識をひけらかして披露し、

誰かから指摘されれば、逆ギレして噛みつくようだ。


次々と馴染みのお助け隊が飛んで来て、

批判されたコメントが「最近のコメント」欄から見えなくなるまで、

短く幼稚なコメントを続けて、

ブログ主の誤った知識に対して、正論を唱えていた、YさんやIさんの

クールなコメントを、驚く程速くメインの記事上から追い出していった。

 


最も恥知らずな偽装は、基礎的な学問の知識を蓄えていないにもかかわらず、

賢い人が読むことなどないからわからないだろう、と高を括って、

偉そうに、誤った自説を唱えて恥じない「一方的な知識の偽装表示」ではなかろうか。

 


これには、確かに、付ける「薬」もなければ、飲む「薬」もない。

「残念ながら間違っています」と小さな声で誤りを指摘したYさんは、

強引な論点のすり替えと誰にも負けない自我の強さで瞬く間に押し返された。

なるほど、早期治療をしてくれる、優秀な「ドクターX」も不要という訳だ。

 


唯我独尊……まさに「ひとり教祖様」状態の独壇場である。

「誤った知識の偽装表示」について、指摘し、

改善させることのできるものはどこにもいない。

 


装った知識。

偽りの幸せ。

装ったものたちや、偽ったものたちは、どれもよく似ている。

 


装ったものたちは、背広の裏にそっと隠されている本物の表示のように

ひそやかな満足感に包まれることや、つつましいながらも、人知れず

充実した思いを味わい浸っている人の存在に気づくことはないだろう。

 


ご自分の無教養さ、ご自分の基礎知識不在、ご自分の文章の拙さを知らず、

人様を、ご自分より不幸な存在、と決めてかかり、

私は幸せ、意地悪な人は妬んでいるだけ、と叫んでいた。

 


でも、当のご自分が、とてつもなく意地悪で、

誰より嫉妬深いことを

私は知っている……

2013年4月24日 (水)

大切な人であればこそ……-面倒な話や難しい話をするな、深刻な悩みは打ち明けるな-

心まで笑顔にしてくれる好ましい友がいる。

 

「きちんとした人しか受け付けなくなっちゃって……」




「受け付けていただいて、ありがとうございます」




こう言って今日、彼女と笑った。

  

彼女も私も携帯が苦手。

自動改札も苦手。


挟まれて痛いと感じた経験を分かち合う。

 



自然が好き、寛ぐのが好き、笑うのが大好き。


そんな彼女とお食事をした。


もちろんこぐちゃんも一緒。

 


彼女はいつも言ってくれる。


「本当にいいご主人ですよね。まったくお変わりにならないし……」

 

言われてみれば、確かに、こぐちゃんは老けこまないようだ。


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それはきっと、人をだましてやろうとか、お金を奪ってやろうとか、

ひと山当ててやろう(?)といった欲も野心もなく、

変なことを考えていないせいで、心が子供のままだからかも知れない。




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道端に咲く何でもない花たちを、

こぐちゃんは静かに撮影していた。

 

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閑話休題。


この人とは末永く親しくしたい、


友情を続けたい。


そんな大切なお相手だと思ったら、


面倒な話や深刻な悩み事は聞かないこと、


そして、こちらも言わないこと。


これは、私が心がけている鉄則である。

さらに、「実は……借金があるんだ……」と、
聞いてもいないのに
告白して来た者がいたら、

直ちに逃げ出すこと。



これも、私の中で密かな鉄則になっている。


だから、つとめて楽しい話をする。


昔から女性の笑顔を見るのが大好き。


女性を笑顔にするのは昔から大得意。

人々の心の傘になるような仕事をしている彼女だから、

私と会っている時くらい思いっきり笑わせてあげたい。

たくさんの女性に気を遣い、


たくさんの女性を笑わせて来た私だが、


心ない暴言や信じられない行動によって


私をとことん苦しめたのは、女性だった。

そんな体験から、心も身体も、いつの間にか
「きちんとした女性」しか受け付けなくなった。

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今日、友人とこぐちゃんはフルコースランチ。

 

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すっかり胃が小さくなってしまった私には


前菜もスープもデザートも、ちょっと無理。

 


ハーフポーションでお魚だけいただいても

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気にしないでいてくれるさり気なさ。


説明しなくて済む関係のありがたさ。

 

外の雨を忘れる晴れやかなひとときをありがとう。

2013年4月10日 (水)

そんなに感動した?!-「海を見る自由」はいつだって得られる-

こぐちゃんのプロジェクトに同行して、

何色ものグラデーションに輝く海を見て、

目を洗ってきた。

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風に吹かれ、自然と仲良しをするひとときは、得難い心の贅沢である。

 

散歩道には、亡き父が詐取された家の庭にたくさん咲いていた山吹が、

「思い出してね」とささやくように微笑む。

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塗っていた口紅がマスクで取れて、よりいっそうのまずい顔。

まずくないのは、おそばの昼食(笑)

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こぐちゃんは、大好きな海老が3本も乗った天丼をご注文。

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狭くて小さな青空しか見つめることのできない都会を本拠地とする私たち夫婦にとって、自然と触れ合う時間をつくることは、今では生活必需品のひとつとなっている。

 



世間の風は暖かくなってきた。

 


拙ブログを読んでいるあなたが、もし恐い目つきをした頑固で暗い女性なら、ちまちまとパソコンや携帯を打っていないで、行ってもいない展覧会の世界的な名作を、無断で己のブログに貼り付けて「借り物ご紹介展」ばかり開いていないで、誰も同行してくれなくとも、時にはひとりで海を見に出かけてはどうだと言ってやりたい。

 


海を見ると言えば、2011年3月、下記のメッセージがネット中を席巻した。

 


特に私が在日と認定していたり、ひそかに在日疑惑を抱いていたブロガーたちが、こぞって下記のメッセージをブログに貼り付け、周知徹底・拡散を呼びかけては、広告・宣伝していたのには驚かされた。

 

このメッセージは、それほどまでに価値ある内容であろうか。

 

下記にURLを貼り付ける。



http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 


このメッセージを書かれた校長先生は、楽しむために大学に行くという者、エンジョイするために大学に行くと高言する者に対して、「鼻持ちならない」と激怒している。

 

だが、大学に行くために池袋行きの電車に乗ったが、ふと脳裏に波の音が聞こえたから、ご講義を欠席して海に行った者、つまり、簡単に言えば「大学をさぼった者」は、「楽しむために大学に行くといった者」や「エンジョイするために大学に行くと高言した者」と、さほど変わりはないのではないかと感じるのは私だけだろうか。

 


率直に言って、前者も、後者も、同じ穴のムジナに思える。

 


大学を楽しむ、大学でエンジョイすると言ってはばからない者に対しては「ふざけるな」と怒鳴りつけ、その一方で、大学で海を見に行く自由を満喫する者を称賛するというのは、どうかと思うということである。

 


例えば、こういう時なら、海を見に行くことには賛成だ。

 


それは、大学の楽しみのひとつであった、「臨時休講」のお知らせが掲示板に貼られた時だ。

 


勉強好きな真面目な模範生であっても、「臨時休講」の貼り紙には小躍りする。

 


親しい友人と喫茶店に行ったり、図書館でノートをまとめるのもいい。

 


予定にしていた最終のご講義が休講だったりすると、そのまま遊びに行ったり、好きなお店に立ち寄って、買い物などしてから、余裕をもって帰宅をすることが可能だった。

 


このように、ふと与えられたご褒美のような自由時間を、海を見に行くために充てるのであれば、それは意義ある有効利用のひとつとも思うが、大学生だからと言って、みだりに、大学に行くために乗った電車を降りて、海に行くことには賛同しかねる。

 



そして、誰であれ、心突き破れそうな、こみ上げるほどの胸の高鳴りによって、どうしても海を見に行きたいと思ったなら、その時には、大学生でなくても行くしかない。
行かなければならない。そう私は思う。

 



その時、その者が高校生であってもいいし、また、社会人であったとしても、配偶者がいてもいなくても、まったく問題はないと考えている。

 



校長先生のメッセージからは、ややもすれば、大学生活だけは他者による時間管理が成されていないとの錯覚を抱かせられるが、自分自身の選択によって決定したカリキュラムによる時間管理が成されており、況や低学年においては、おしきせの教養科目や語学、保健体育の実技と、ほとんどの時間を決められたタイムスケジュールに従って動かねばならない。

 


担任の教授もいれば生活指導の職員もいる。

 


さらに、仲間たちの目による友情や心配といった、温かくも厳しい管理がある。

 


同じクラスの友人が必修の講義に顔を出さなければ、すぐに気づいて、どうしたのかなと気になるし、麻雀やコンパに出かけるために講義を休む男子は、あらかじめ代返やノートを依頼して堂々とサボっていた。

 


つまり、時間を含めた他者による管理という側面から考察すれば、「大学だけが例外ではない」と言うことが出来そうだ。

 


むしろ、社会人となって、人生の荒波に揉まれてからこそ、海を見る自由が必要になってくるのではなかろうかと私は思うが、如何なものか。

 


さて、ご承知のとおり、このメッセージは、男子生徒に宛てて書かれたものである。

 

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。


一途な男になれ。貧しさを恐れるな。


男たちよ。



この「男たちよ」という呼びかけ、「女たちよ」には置き換えられないものだろうか……

 


真っ正直に生きていて、くそまじめで、一途で、貧しさを恐れていない人間としては、その点もまた、少しばかり不満ではある。

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