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2014年10月15日 (水)

険しい道をまっすぐに進め!-困難な作業の継続には意味があり、必ず結果がついてくる-

権力に迎合せず、権力に媚びへつらわないペンの力は、読者の心を揺さぶる。

 


ポエムやメルヘン、アニメといった可愛らしい読み物や何の変哲もないのどかな旅行記、巷を席巻するグルメ記事も時には良いだろう。

 


だが、ノンフィクションやドキュメンタリーのように、実体験や現実に即した内容の書き物が、中学時代から私は好きだ。

 


真実であるからこその重みと臨場感に溢れ、迫力を帯びた内容は、体験した者にしか書けない。

 


元朝日新聞の記者で、現在はフリージャーナリストとなられ、古巣である朝日新聞ひいては司法と闘っておられる吉竹幸則氏の文は、冷静でありながら、力があり、熱がこもっている。

 


但し、訴状も準備書面も読んでいない私に、吉竹氏が原告となられた訴訟について語る資格はない。

 


ジャーナリストではなくとも、人様の訴訟について論ずる場合、裁判所に足を運び訴訟記録に目を通すのが最低限の礼儀であり筋であると思っているからだ。

 


訴訟に限らず、他者への批判や指摘を公にする場合には、あらかじめ取材をする、直接質問をして確認し、事実関係を理解するなど、書く対象について知っておくことが肝要であろう。

 


書く対象である他者や組織について、可能な限り知悉しておくことが望ましく、知り得た情報が多ければ多いほど的確な批判や指摘が可能となる。

 


さらに、自分であればこのような行動は絶対にしない、こんな発言は出来ないと言いきれる悪しき言動を他者がやってのけた場合にこそ、全身全霊をもって強く批判し明確に指摘して、活字に残しておくべきであろう。

 


世話になった者に寝返る恩知らずな者があいつは恩知らずだと叫び、裕福な高齢者を狙って近づき言葉巧みに金員を騙し取る悪辣な者が、俺は口車に乗ってあいつに投資させられ全額をくすね取られたなどと愚痴をこぼしたとしても、とんだお笑い草であり自業自得との誹りを免れないであろう。

 


誰にでも公平かつ公正に分け隔てなく接し、人を、門地、家柄、肩書、職業、学歴、財産で判断することのない私には、権力迎合の姿勢や、権力におもねる態度をあからさまに見せつける者について、声を大にして批判する資格がある。

 


何の疑問もなく「寄らば大樹の陰」とばかりに権力者に擦り寄ってその肩を持ち、「長いものには巻かれろ」を念頭に権力者に阿諛追従する安易安直な権力志向は、人間から思考力を奪い取るであろう。

 


権力に追随する行動を続けていくうちに、その者は大切な何かを見失い、覇気をも失っていくようだ。魅力も輝きもなく、土色のうらなり瓢箪のような面構えの人間になってしまうように見える。

 


猟虎の皮のように、より権力のある者や、財力のある者が目の前に現れて、その者から頭を撫でられればたちどころにその者たちに与して、権力者の走狗に成り下がる。

 


そんな信念も根性もない人間に独自の見識があろう筈もなく、的確な判断力など期待しても無駄というものであろう。

 


高い肩書と地位それに伴う財産を誇るエリートたちは、学校で成績を良くするための点取りの技術や、受験に合格するためのノウハウに長けていただけなのではないだろうか。

 


そして、後にその技術を、権力者らにおもねながら上手に世渡りをしてのし上がっていく技術に摩り替えて、人生の駒を進めてきたのだろう。

 


人より点数が取れただけ、計算高いだけ、狡猾なだけで、本来の頭脳はたいして良くもなく、論理的な思考力にも欠けているのではないか。

 


重い肩書を背負い、その呪縛から解放されることなく一生を終えねばならないような、保身の力こそ十分だが人間的魅力に乏しく冷淡に見える者たちは、実のところ、人生を振り返って「もっと好き勝手なことがしたかった」と感じていたりはしないだろうか。

 


「思いっきり恋愛ってものがしてみたかった」「羽目をはずして遊んだことなど一度もなかった」などと取るに足りないぼやき漫才にも似た、自己を慰める空虚な独りごとや繰り言を、誰の前でも開けないおねしょで汚したシーツのように、自分自身の心の中だけで何万回も繰り返していたりはしないのだろうか。

 


それは、誇れるのは肩書だけに見えるような老いた者たちと対面して、清々しい表情や輝く瞳の見られたためしがないからだ。

 


その者たちの目つきは必ずと言っていいほど悪く、歪んだ笑い顔は見られたものではない。

 


破顔一笑の豪快な笑い声など聞くこともなく縁が終わる。

 


近隣ハラスメントで訴訟中に、控訴をした東京高裁で、ほぼ同時期に開廷された2件の控訴事件を同じ裁判長が担当するという偶然を装った嘘のような本当の話があった。

 

主人が立ち上がって「異議あり」と述べたが、「異議は認めない」とにらみつけながら叫び、出て来るが早いか、黒服をまとった烏のような3人組は一瞬のうちに後方へとひっこんで行った。

 


決してケチではない私だが、ほんの数分で閉廷、しかも一回の期日で結審する審理には、地裁の1.5倍もかかる訴訟費用を返してほしい思いがした。

 


既に退官したが、その時の裁判長Fのそれはそれは悪い目つきといったらなかった。

 


権力志向は無気力さへと連なり、ひいては良心の不在をも形成するのではないだろうか。

 


そうした者たちには自己の拠り所が権力しかないからこそ好き勝手に権力を濫用するのだろう。

 


下記に引用した吉竹氏の記事には、訴訟で大量の証拠を提出したところ、


裁判官から「
あなたに抗議します」と言われたと書かれている。

 

私たちが裁判官を裁判するのです。」とも書いている。


法曹界に限らず、この人から国家資格を剥奪したら、誰も相手にすまい、果たして結婚してくれる相手はいたのだろうか、と首をかしげざるを得ないような、性格も、態度も、容姿も、最大限に不快感を与える者たちは、エリートの看板に頼って生きてきたのだろう。

 
エリートに見合い結婚が多いのは、職場での姿を見せれば結婚してくれる者など誰もいないと知り得ているからではないだろうかと、冗談ではなく思えるようになっている。

 


見合いで名門の良家の女性を嫁に迎えるのは勝手だが、恋愛もそこそこに、ロマンもパッションもなく、結婚のための結婚をするのは、情熱を封じ込められたまま終える空疎な人生のようで、実にもったいない。

 


余談だが、そう言えば見合い結婚をしたエリートの妻に、ナイスバディのかたせ梨乃さんのような女性や、誰が見てもお美しい若村麻由美さんのような女性などいたためしがない。

 


与えられた権力を振るう快感と引き換えに、年々悪くなる人相と人間性とを道連れにして、薄っぺらい茶封筒のようなつまらない一生を終えることにもなりかねない。

 


それに比して、何のしがらみもなく、権力におもねず、自らの良心をものさしにして、誰から何と言われようと、まっすぐな竹のように、ずんずんと闘いを続ける人々は、いくつになっても風雲児のように、活き活きと、自らの怒りを率直な言葉にして、読む者の心を動かす。

 


たとえ「蟷螂の斧」と揶揄されようと、自分より強いもの、自分より大きいもの、利益をむさぼる巨悪に立ち向かい、

 


ぶ厚い化けの皮を剥がし、

 


何層にも塗布された偽善のコーティングをこそげ落とし、

 


丸裸にして、その正体と本質を、わからせることだ。

 


相手の顔色を見ず、腸(はらわた)から湧き上がる理不尽さを、丁寧な文章で淡々と書き続けてゆく行為には、強靭な体力、知力、そして何よりもとことん闘い抜くだけの気力が必要とされる。

 


長きに亘る巨悪との闘争において、健康を損ない、光明が失われる時もあろう。

 


だが、諦めることなく闘争を続けている筆者の方々には、敬意を表したい。

 


道が険しく困難であろうとも、現在批判し、糾弾している先は「完全に『悪』である」との信念に基づき、その信念の命ずるままに書き続けている限り、必ず道は開ける。

 


なぜこんなにも困難な作業を続け、粒粒辛苦の日々を過ごさねばならないのだろうかと苦悩する時があっても、現在の行動には意味があり、必ず結果がついてくるということを、私は日本IBMとの闘いで知った。

 


いかなる妨害や攻撃を受けようと、そして、「やめた方があなたのためですよ」といったおためごかしが立ちはだかろうとも、そんなものに惑わされてはならない。

 


高齢者や恩義のある弱き者を欺き騙して利益を得てきたような偽善者、隠蔽体質のブラックな組織、つまり、「巨悪」に対する批判や追及の手は、決して緩めてはならないのである。

 


むしろ、命がけで、その者やその組織の「善」ではない部分を、わかりやすく知らしめ、その者やその組織の「悪」を、あまねく後世に伝えねばならない。

 


それが、実体験で「完全な悪」に遭遇した私を含む怒れる多くの人々の担うべき役割であり使命と確信している。

 


下記に吉竹氏の文を引用する。

*******


私と朝日の主張が出揃った2009年1月の口頭弁論のことでした。裁判官は、突然、審理の打ち切りを宣言したのです。次回、3月の弁論までに双方が、最終書面を出すよう指示、追って判決日を指定するとのことでした。


私は唖然としました。法廷でたったの1回も肉声で朝日と論戦していません。
「取材不足」があったかなかったか、私と朝日の主張には事実関係も含め、大きな隔たりがあります。私が最大の当事者、証人です。


話を聞き、朝日から反論させる。証拠を精査し、必要があれば証人も出廷させる。その上で、どちらの主張に真実性・合理性があるかを客観的に判断する。それが、当たり前の「裁判」です。


記者なら当事者に会い、直接話を聞くのは当たり前のことです。いくら資料が豊富でも、肉声で相手に確かめてこそ、初めて真贋も判断出来、心証も作れます。まして当事者の言い分が180度違ったら、会って詳しく取材しないと、私は恐ろしくて記事など書けませんでした。


記者も裁判官も書く文章をもって、人の運命を左右する職業です。記者はそのために取材を尽くします。裁判官も審理を尽くして、真実を見極める…。それが最低限の職業倫理だと思っていたのです。


◇朝日は、人事差別を否定するが・・・


私には審理を打ち切った裁判官の神経が分かりませんでした。本人陳述だけでもさせるよう、何度も何度も食い下がりました。しかし、頑として拒否され、私は仕方なく陳述しようとした内容を最終書面にまとめる作業に入りました。


そうこうしているうちに、朝日から先に、最終準備書面が郵送されて来ました。ヤブヘビを避けたのでしょう。何を「取材不足」とするのかなど、具体的なことは何も書かれていませんでした。


◇裁判官が「あなたに抗議します」


次に、私に「取材不足」がなかったことを、再度、念押しするため、取材経過についても詳細に書きました。ここでは長くなります。もう一度、想い出すために内容を確認したいと思われるなら、この「公共事業は諸悪の根源」シリーズ①-④を読み返してみて下さい。 私が入手した建設省の極秘資料は、とても手では持ちきれないほど、多量にあります。陳述が許されたら証拠として提出、裁判官席の前にずらりと並べるつもりで手元に置いていました。その資料を証拠として一緒に提出。取材の裏付けが十分なことを主張しました。


本来は、法廷で朝日に聞かなければならないことは、山ほどあります。
聞きたいことを一つ一つ具体的に列挙し、「釈明を求める」を連発させました。弁論を再開して、争点についてきちんと審理をするよう、裁判官にアピールする意味も込めてのことです。


こうして3月の最終弁論を迎えました。しかし、裁判官は弁論の再開を決めるどころか、「あなたに抗議します」と言ってきたのには、正直面喰いました。この段階になって、私が大量の証拠を出したのが、けしからんと言うのです。


私は司法記者時代、毎日のよう裁判を傍聴して来ました。しかし、原告が証拠を提出して、裁判官に叱られたシーンなど、見たことはありません。何も、証拠の出し惜しみをしたのではないのです。裁判は緒についたばかり。一方的に裁判官が審理を打ち切ったから、やむを得ず予定していた証拠を慌てて出したに過ぎません。

原告には証拠の提出権もあれば、立証・反論権もあります。それが憲法で保障された国民の「裁判を受ける権利」というものでしょう。それさえ否定し、裁判官は判決日を強引に1ヶ月後に指定しました。


公平・公正であるべきなのが裁判官です。しかし、この裁判官は、私への敵意を隠そうとしませんでした。
この時、私は「敗訴」という二文字が初めて頭をかすめました。


しかし、私の主張は、どれも動かし難い定着した最高裁判例に基づくものです。「取材不足」がなかったことも、証拠と準備書面によって二度も三度も詳しく説明しています。普通に日本語の読める裁判官なら、理解出来るはずです。

私を敗訴にさせるなら、どんな理屈・法的構成にするのか。元司法記者程度の頭では、それがどうしても分かりませんでした。


◇「原告の請求はいずれも棄却します」

こうしての4月23日の判決日を迎えました。裁判官の口から出た言葉は、「原告の請求はいずれも棄却します」。つまり、私の敗訴です。民事の法廷では理由は読み上げられません。私は首をひねりながら書記官室に行き、判決の全文を受け取りました。私の膨大な主張、書面に比べ、判決文はあまりにも薄っぺらでした。


公共事業は諸悪の根源⑰ デッチ上げまでした司法【その3

http://www.kokusyo.jp/%e5%85%ac%e5%85%b1%e4%ba%8b%e6%a5%ad%e3%81%af%e8%ab%b8%e6%82%aa%e3%81%ae%e6%a0%b9%e6%ba%90%e2%91%b0%e3%80%80%e3%83%87%e3%83%83%e3%83%81%e4%b8%8a%e3%81%92%e3%81%be%e3%81%a7%e3%81%97%e3%81%9f%e5%8f%b8/

 

残念ながら、もはや既成メディアに頼っているだけで、国民の「知る権利」は充足されません。だからこそ、穴を埋めるフリージャーナリストの活動が不可欠なのです。

 

しかし、権力に都合の悪い情報を深く取材しようとしているフリージャーナリストが秘密保護法で狙い打ちにされ、活動が制限されるなら、戦前の報道弾圧・秘密主義国家に逆戻りします。この違憲訴訟に多くのフリージャーナリストが原告として加わったのは、そんな危機感からでした。

 


私たちは、ますます権力迎合の姿勢を強める司法・裁判所を信じている訳ではありません。

 


この違憲訴訟でまともな判決が出されるとの期待もほとんどしていません。案の定、第1回の口頭弁論で原告団が多くの陳述を求めたにもかかわらず、裁判所が認めたのは3人だけ。それも「一人3分」の制限まで設けました。

 


原告の思いを正面から聞いて、真摯に受け止める気持ちなど、裁判官にはさらさらないようです。 私は、すべての分野での見識が備わっている訳でもなく、使命感の薄れた裁判官の言葉・ご託宣を有難く聞く時代は終わったと考えています。
人々の「知る権利」、「表現の自由」、「良心の自由」…、つまり基本的人権を根こそぎ奪う秘密保護法は、裁判官に判断を仰ぐまでもなく、明らかに違憲です。

 


だからこそ、「法の番人」が使命であるはずの司法に訴訟提起し、少なくとも一度は、違憲か否か、彼等に判断させなければなりません。 権力に媚びることで自分の身を守る裁判官が増えた今の司法が、違憲判決を書くとは思えません。

 


かといって、こんな悪法に対し、正面から堂々と説得力のある合憲判決が彼らに書けるのか。今の裁判官にその能力があるとも思えません。違憲、合憲の判断も下さないまま、逃げるのが精一杯でしょう。

 


でも、そんな判決文の中で、裁判官が何を書くか。それを読んで言質を取り、私たちが裁判官を裁判するのです。
判決文が矛盾に満ちていたなら、そこを突いて改めて仕切り直し、秘密保護法を廃止に追い込む新たな闘いを構築すればいいと考えています。ぜひ、多くの皆さんの支援をお願い致します。

 


公共事業は諸悪の根源⑯ デッチ上げまでした司法 その2【前編】


http://www.kokusyo.jp/%e5%85%ac%e5%85%b1%e4%ba%8b%e6%a5%ad%e3%81%af%e8%ab%b8%e6%82%aa%e3%81%ae%e6%a0%b9%e6%ba%90%e2%91%af%e3%80%80%e3%83%87%e3%83%83%e3%83%81%e4%b8%8a%e3%81%92%e3%81%be%e3%81%a7%e3%81%97%e3%81%9f%e5%8f%b8/

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