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2014年1月29日 (水)

「虚言魔」の人格は破綻している! -「虚言症」は、真実の自分と対峙できない精神の病-

昨年、元親族の女性から「恫喝訴訟」を提起され、いきなり超高額の支払いを求められた。

 


その女性の夫であった私の又いとこは、別の女性を愛し、その女性とともに沖縄へと逃避して、妻であったその女性と娘らの元を去り、6年間の期間を経て、ようやくその女性が離婚の申し出に応じることで、長い別居生活にピリオドを打った。

 


6年間の間に、その女性の夫は、その女性によれば、私と同い年とされる別の女性との間に2人の娘さんまでもうけたというのだから、単なる浮気ではなく、既成事実をつくってでも、何としても、その女性と離婚がしたかったのだろう。

 


沖縄、フランス、そして北海道に逃げている事実から判断すれば、その女性のパワーをもってすれば、もし東京と地続きの土地に逃がれていたとすれば、毎日でも車でやって来て押し掛けられてしまうとの恐怖がよぎったのではないだろうか。

 


人一倍よく動くその女性が、離婚に応じるまでの6年間、亡き母と私とは、相談と称して何かとやって来ては、拙宅で食事をし、物をもらって帰って行くその女性の、今にして思えば芝居気がかった、流れるような弁舌を信じ、心底同情して、誠心誠意、物心両面で、その女性と娘らを援助し、支えてきたと強く自負している。

 


自負しているどころか、これ程までに、ひとりの女性に必死で尽してきた経験は、母も私もなかったのだ。

 


その女性も、当時は、私たち家族から世話になったことを認めていた。

 


だから、「必ずご恩返しいたします」と口癖のように言い、姉妹のいない私に対して、満面の笑みを浮かべながら、「妹のように大切なベラさん」「大事な人」と繰り返し口に出していた。

 


そんな女性に、家族全員の死を知らせたが、お悔やみのひと言すらなかった。

 

7年後、私がそのことについて反省を求めた時、その女性は当惑したという。

それがなぜいけないことなのかすら、その女性にはわからなかったようだ。

 


家族と愛犬を亡くしたのは、その女性が離婚したのと同じ1999年であり、その女性の離婚は夏で、私の両親と愛犬の死は冬であった。

 


僅か4~5か月間に離婚したという変化をもって、既に親族でもなかったから義理はないなどと言えるものではない。

 

しかも、その女性は、母にもしものことがあった時には私を助けるという約束を、自ら、生前の母と結んでもいたのであった。

 


大正生まれの母は、年老いていくにつれて、独身の私を残して先に旅立つことが不安でたまらなかったようで、私の行く末について、誰よりも心配していた。

 


そんな母は、誰もが認める心あたたかく優しい女性だった。

 


平素から、自分のこと以上に、悩める人、打ちひしがれた人に寄り添い、他人への同情心に溢れ、「与うる(与える)は受くる(受ける)より幸いなり」を信条として生きてきた母だった。

 


いかに損得を考えない母であったにせよ、あれほど魂をこめて、その女性に尽くしていた心の奥底には、「自分にもしものことがあったら、どうか娘をよろしく……」との切なる思いがあったことは、否めない事実であろう。

 


海よりも深く山よりも高いと言われる我が子を思う「親心」につけこんで、もしもの時には必ず駈け付けます、ご恩返しいたしますと、固く手を握って約束を交わすことによって、とことん財物を前借りし尽くしただけで、実際にもしものことがあった時には、生前に結んだ約束を果たすどころか、私から背を向けて、訃報を完全無視し、だんまりを決め込んで背を向け、ひと言のお悔やみの言葉すらなく、逃げきったのがその女性の実態であった。

 


さらに、罠とは知らず、その女性の公言に従った私は、昨年、総額6千万円という超高額「架空請求訴訟」を提訴され、現在も応訴中心の過酷な生活を余儀なくされているという訳である。

 


頓に疲れやすく、若い頃に比べて頑張りのきかなくなってきた私は、応訴以外には極力脳を休めようとの大義名分の下、難解な書物を読み込むことや、政治・経済等の堅苦しいブログを読むことを避けて、買い物に出かけたり、軽いテレビを観たり、個性豊かな女性のブログを読むことで、気分転換を図りながら過ごしている。

 


そうした生活の中で、先日、中村うさぎ氏のブログに「虚言症」に関する記事を見つけたので、URLを下記に貼りつける。


http://takanashi.livedoor.biz/archives/65890014.html

 


記事の中には、知り合いに著名人がいるとか、家が大金持ちだとか、学歴詐称といったウソは「真っ赤な大噓」であり、「話を盛る程度のご愛嬌ではすまない」「はっきり言って、それはもはや病気です」との結論づけが成されており、正論だと思った。

 


公共の電波を使って、自分の肩書を「准教授」と虚偽の事実を吹聴・宣伝し、「世界中に家がある」と虚偽の事実を公開し、「お手伝いさんがいた」と生まれながらのセレブ家庭を装い、高い時給のホステスとして使ってもらいたいばっかりに、口添えまでしてもらったにもかかわらず、務めが終わった後、上司や同僚にことわったうえで、5時間も「皿洗い」をさせられたなどと大噓を平気でブログに書いたりするような者はいないだろうか。


そういう者は、上手に嘘をついて、現在の仕事仲間や利益共同体にさえバレなければいい。と考えているようだ。

 


さらに、

バレたところで罰せられなければいい。バレたところで、付き合わなければいい。

バレてもお金さえ取られなければいい。バレたとしても、忘れてもらえるからいい。 

とも考えているのだろう。

 


ズルく卑しい虚言魔を許すことなく、ひとつひとつの嘘を完全につぶそう。

 


そして、大嘘つきが、いかに大嘘つきかであるかを広く知らしめることも肝心である。

 


巧みに嘘を重ね、人を欺いて、利用したまま、「二度と会わない人だからいい」と高をくくり、別の世界で新たな嘘をつき、つくり笑顔で上手に他人を利用しながら生きていく心つもりのようだが、そうは問屋が降ろさない。

 


嘘つきの人生は、人に何かして「もらう」ばかりの人生。

 

利用される人は、人に何かして「あげる」ばかりの人生。

 


嘘つきの人生、それは、無い物ねだりの人生であろう。

本当の自分に満足していれば、嘘をついてまで相手に認めて「もらう」必要はない。

 


嘘つきの人生、それは、不自然な、寂しい人生であろう。

目立ちたいばっかりに、嘘をついてまで注目して「もらう」ことを望んでいるからである。

 


ところが、大嘘つきたちは、上手に嘘のつける自分が大好きで、才能とすら感じており、クリエイティブであると信じて疑わないから、始末が悪い。

 


そんな虚言魔たちが最も嫌がるのは、過去の虚言を、ひとつひとつ指摘し、糾弾することであろう。

 


また嘘を……とうんざりして疲弊することなく、こんな嘘を!と立腹して身体を壊すことのないように、ベルトコンベアのようにどこまでもずんずんと押し寄せて来る嘘の洪水を目で追いながら、「はいはい、お次の嘘は何ですか?」くらいの気持ちで、どんなに長くなろうと、いかに疲れようと、相手が持ちこんだ虚偽の事実を、ひとつひとつ指摘し、根気強く糾弾していかないことには、嘘つきを、ことさらに図に乗らせるだけであろう。

 


整合性に欠けた話を、立て板に水の如く展開して恥じない虚言魔にとって、正論をもってまっすぐ過去の悪行について問われることは、最も都合が悪く、何としても避けねばならないであろう。

 


だからこそ、虚言魔は、一方的に虚言を吐くだけで、相手の反論を知ろうとせず、直接質問を受け付けて、自分で考え、自分で問題に対峙することは一切ない。

 


こういう輩は「言うだけ番長」「口だけ番長」とも呼ばれるようだ。

 


正々堂々と、一対一で勝負の出来ない虚言魔は、権力に縋ることしか出来ない、実力のない小心者と言うことも出来そうだ。

 


いずれにしても、嘘つきの正体は、小さく、軽く、みみっちく、どこまでも安っぽい人間であり、大した人物でないことだけは確かである。

 


「この人からよく動く口を取ったら、何にも残らない」


そう感じたら、その者は、きっと虚言魔に違いない……

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