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2013年3月14日 (木)

東日本大震災二周年の翌日、ご遺族の心を逆撫でするような、現実離れした「さよなら、またね」とのブログを書いた、池澤ショーエンバウム直美氏の長女! 特別な感情が湧かなかったのなら、何も書かずに沈黙している方がいい!

その歳になれば、誰だってお通夜に行くことくらいあるだろう。



それを、「私、お通夜に行ったんだよ、偉いでしょ」とばかりに、東日本大震災二周年の翌日、ブログに書いて知らせずにはいられなかった直美氏の長女の神経。



そして、突然の訃報に接して、先日お通夜に行ったが、実感がなさ過ぎて泣くことも出来なかったと書いた愚かさ。



ご家族を突然亡くした悲しみを知っている人は、同じように尊いご家族を突然失った人への同情と憐憫の感情がこみあげてくるだろう。



家族も同然のペットが突然交通事故に遭って突然天に召さてしまったという体験を持つ人は、愛するペットが津波で流されてしまったと泣いている人に対する共感の涙が自然にこぼれるだろう。



ところが、自分の仕事と自分のお金と、自分の外見が総てで、いかにして自分が目立つか、どうすれば自分が注目されて話題をつくれるかと知恵をめぐらすような、自分のことだけしか考えてこなかった人間は、実体験に乏しい。



自己愛に満ち満ちた人間は、いつでも、小さくて狭い心を、自分のことだけでぎゅうぎゅう詰めにしている。



だから、他の人の悲しみや辛さの感情を分かち合うことや、共有することもなく、他の人の心中を忖度することが出来ないのだろう。



声優としても、女優としても、豊かな表現者であるためには、多くの経験を積んで自身の糧とし、貴重な実体験によって心と身体に蓄えた滲み出るような感情を声や演技に昇華すればいいのにと、残念に思えてならない。



それは、いくつになっても可愛い服を着てにこやかに笑い、最高の音響に頼りながら、鼻先、口先で軽く歌うような歌いぶりよりも、修行を積み、ボイストレーニングを重ね、お腹の底から声を出して渾身の力で歌う声が多くの人々の心を打つのと似ているように思う。



前回、拙ブログで、私は「東日本大震災二周年追悼式」から、二つのうちひとつのお言葉を採り上げて紹介した。



今回、残りのひとつについて書こう。



それは、「この悲しみに区切りはなく、終わりもありませんが」というお言葉である。



人生には、たくさんの悲しみがある。



その中に、人が亡くなるという悲しみがある。



人が亡くなるという不幸の中には、人が、自然の流れとは別に、急に、何の予告も前触れもなしに、突然亡くなってしまうという不幸がある。

人がいきなり亡くなってしまうという悲しみ。



私も、このとてつもなく大きな悲しみを体験している。



東日本大震災で、突然奥様とお子様を亡くされた男性が、「この悲しみに区切りはなく、終わりもありませんが」と語られたとおり、



この悲しみに、区切りはない。



この悲しみに、終わりもない。


もし、自分は、本当の悲しみを知らない、心底辛い気持ちやどうにもならない苦しさを知らない、大切な人や親しい人の突然の死という不幸には直面していないし、体験してもいない、だから、理解することが出来ないし、わからない、実感が湧かない、涙も出ない、言葉が喉で詰まって出ないというのであれば、そういう人は、そのまま黙っていればいいと思う。



そして、何も書かなければいいと思う。



突然の知人の訃報に接して、深い悲しみに包まれることも、虚無感にとらわれることもないという人。



そんな人は、沈黙していることだ。



だが、冒頭に述べたとおり、その年になれば誰だってお通夜に行くことくらいあるだろうが、それを、私、お通夜に行ったんだよ、偉いでしょとばかりに、ブログに書いて知らせなければいられないというのが、直美氏ら母娘である。



東日本大震災二周年の翌日だというのに、多くの被災者やご遺族に向けて哀悼の言葉を書くこともなく、「この冬は本当に訃報が多いです。」「さらに訃報が立て続けに。」と書き、知人の突然の訃報に接して、お通夜に行った、実感がなさ過ぎて泣くことも出来ないと書くその愚かさ。



無味乾燥な、味も素っ気もないブログを書くくらいなら、何も書かない方がましではないか。



自己愛しか持ち合せない人間は、どこまで生きようとも、いかに生きようとも、人の悲しみも、人の苦しみも理解することは出来ないだろう。



私の知る限り、自己愛だけの人間たちは、派手で、目立ちたがり屋で、極端にプライドが高く、権力志向で、被害者意識が人一倍強いようだ。



自分は偉そうで居丈高な態度や、身分不相応な言動によって多くの人々を傷つけ、多くの人々を踏み台にしながら生きてきたにもかかわらず、自分が傷つくことには超過敏で、こと自分に関する限りハリネズミのように神経を尖らせ、他人を巻き込んで大騒ぎを繰り広げ、被害者を装って、権力者に平身低頭し、揉み手で擦り寄っては同情を引いて擁護してもらう傾向にある。



その反面、自己愛だけの人間たちは、人の心の動きに鈍感で、人の痛みには気づこうともせず、人の気持ちなど理解するのは時間とお金の無駄だとでも考えているかの様相を呈している。



それが、私の知る肥大した自己愛の持ち主たち、つまり、池澤ショーエンバウム直美氏とその娘らである。



自己愛に凝り固まって生きていると、他人の悲しみに寄り添った経験を持つことなく、捨て身で行動した体験もないという、お寒く薄っぺらい人生が結果として生じる。



だから、狡猾さは人一倍だが、歳ばかり取ってはいても、実体験がお粗末で人格的に未成熟なのは、当然の結果である。



そして、何ごとに直面しても人ごとで、実感が湧くこともなく、あたたかい感情の流れが伴わない。



脆弱で、表面的なうわすべりの言葉や文章しか残せないのは、自己愛で凝り固まり肥大化した心には、他者への思いやりという感情の育つ余地がなかったからであろう。



実感が湧かないということは、つまり、未発達の心が、さまざまな状況についていけないということであろう。



では、これといった感情が湧かず、伝えたい思いもないのに、なぜ、知人の訃報を書くのか。



総ては、「この私が知ったからには、何かブログに書き残さなくては」との比類なき自己顕示欲が始まりのようだ。



それは、冒頭で述べたように、「私、知人のお通夜に行って来たんだよ、感心でしょう?偉いでしょう?!」とばかりにブログに書いて、善きことをしたんだよと世間に知らせ、善人と認めさせなければいられないという、直美氏ら母娘の虚栄に近い褒められたいとの強い自我ではないだろうか。



だが、何の慰めにもならないような、安っぽい、感情のこもっていない言葉を並べて幼稚なブログを書くくらいなら、何も書かずに沈黙していた方がよっぽど良いではないか。



知人の訃報に接すれば、小学生にだって、心に響き胸を打つ言葉や共感を呼びさます言葉を口にすることができるだろう。



たとえ稚拙であったとしても、人の心にまで届くような本音の声を、お悔やみの言葉として残せるだろう。



亡くなられた方と「また会う」ことなど、決して、決して出来ない。



また会いたい、もう一度だけ、せめてひと目だけでもと、どんなに懇願しようと、どれほど強く叫ぼうと、夜明けを待ち、泣きながら涙とともにいつの間にか眠りにつき朝になろうとも、愛しい人は、かけがえのない人は、突然変わり果てた姿となってしまった愛する人は、二度と再び、あの笑顔を、あの声を、あの立ち姿を、決して、決して、「また」見せてくれることはない。



「もったいない、私が代わりますから」とお棺にすがりついて、何度慟哭したところで、戻って来てなどくれよう筈もないのだ。



さよなら」はあっても



またね」はないということ。



そんなこと、大人なら誰もがわかっている。



大切な人の突然の死という人生最大の痛恨に耐えているご遺族が、必死で抑えている激しい胸のうちを忖度せず、「さよなら、またね」との気休めの言葉を軽々しくタイトルにして、これと言った特別な思いがないにもかかわらず「この冬は本当に訃報が多いです。」「さらに訃報が立て続けに。と書き残すブログに、一体何の意味があるのだろう。



しかも、書き手は3歳の幼児でもなく、7歳の女子児童でもなく、直美氏の長女という40歳近い熟女なのだから、なおさら、その空疎な心のあり方に呆れるばかりである。



人生は、アニメでもなければ、ゲームでもない。



人の世は、「動物の森」とは違う。



ライブに行くのと同程度の感覚でお通夜に行ったと書くレポーターのような説明口調の軽い流れのブログの中に、直美氏の長女の心を探してみたが、同情も、憐憫も読み取れず、哀悼の意もなく、深い感情は奈辺にも感じとれなかった。



被災地のための「チャリティコンサート」を開いて、責任者となって司会をした母親である直美氏が、プロである長女を出演させたばっかりに、ベストなコンディションで歌唱してもらうために、人様からお預かりした被災地に届けるためのお金を多額の音響オペレーション費用に浪費させて、とても少なくなり納得が得られなくしてしまうくらいなら、長女は参加せずにひっこんでいた方が、被災地の方々に届くお金はずっと多かった筈であろう。



コンサートは良い音で皆様に楽しんでいただきたく、また演奏者の皆様にもベストなコンディションでご演奏いただけるように、リハーサルも行い、本番と2回分のホール代備品使用料、音響オペレーション費用等がかかりました。
これらを差し引くと、純粋にご寄付できる金額がとても少なくなってしまい、皆様にとっては納得がいかない金額と思われるかもしれません。



 
同様に、人様の直面している苦悩や悲哀が理解出来ず、言葉が見つからないというのであれば、知人の突然の訃報に接した時、使い古した言葉を羅列させただけの底の浅い内容のブログしか書けないのであれば、書かない方がよっぽど良いであろう。



沈黙を守り、静かにお別れをした方が、身の程を知っている分だけまだ良かったのではないか。



私にはそう思えてならない。



***



さよなら、またね

2013.03.12

http://halunahime.blog13.fc2.com/blog-date-20130312.html



~ 港北から東北へ 願いは音にのせて ~ チャリティコンサート募金への御礼


http://blog.goo.ne.jp/stcshienkai/e/0b7c232ad283534917c055a71c1c1727


コンサートは良い音で皆様に楽しんでいただきたく、また演奏者の皆様にもベストなコンディションでご演奏いただけるように、リハーサルも行い、本番と2回分のホール代備品使用料、音響オペレーション費用等がかかりました。
これらを差し引くと、純粋にご寄付できる金額がとても少なくなってしまい、皆様にとっては納得がいかない金額と思われるかもしれません。
ただ、私たちは長い月日をかけて復興していく東北地方の皆さんが、今何を考えて何を欲していらっしゃるのか、皆様にお伝えすることが一番の目的であります。
復興を願い温かいお気持ちを寄せて頂けた皆様とご一緒に同じ時間が過ごせたことに心から感謝しております。

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